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まほろばだより−健康コラム−




 日本における稲作の歴史は、従来考えられていた(約2400年前ごろ)よりもはるかに古いかもしれないと言うことが、数々の遺跡に残された痕跡によって証明されつつあります。  

 3500年前(縄文後期)とも、6000年前(縄文前期)とも言われています(異論もあります)。


 近年の放射性炭素(C14)年代測定法によると、少なくとも2900年前まで遡る可能性が出てきたそうです。  

 これを受けて、国立民族歴史博物館は、2003年5月に、少なくとも弥生時代の始まりは500年遡る、と発表しました。

 とはいえ、初期の稲作では、水田跡などの農耕遺跡が発見されているわけではありません。

 プラントオパールと言うイネの細胞化石が、発見されたのです。
イネ科の食物は、土中の珪酸を吸収して葉っぱの細胞に蓄積します。そうした珪酸体が地中から掘り出されたものを、プラントオパールと言うのです。

 プラントオパールは植物の種類ごとに特徴的な構造をしているので、イネ・プラントオパールが発見されれば、そこにはイネが存在した可能性が非常に高いと言うことになります。

 

 ただし、イネ・プラントオパールは非常に小さい(50ミクロン以下)ので、地層を透過したり、汚染されたりする可能性があるため、決定的な根拠になりにくいという点があります。  

 縄文時代のイネ・プラントオパールの検出例は30例に及び、一番古いものは縄文前期(6400年前)のものが発見されています。  
しかし、水田跡や農機具などはどこにも発見されていないのです。

 


 さらにイネの品種も、陸稲用の熱帯ジャポニカ米で、縄文期の終わりに、渡来人のたずさえてきた水稲用の温帯ジャポニカ米とは違います。

 

 花粉は、プラントオパールと違って、多くの植物種に存在し、非常に丈夫な外皮に覆われているので、保存状態が良いそうです。

 花粉分析と言うのは、このような花粉化石を調べることです。  
花粉分析の結果から見ても、縄文時代に広い範囲で長期間イネだけを作り続けた場所は見当たらないそうです。

  つまり、水稲栽培の痕跡は見当たらないということです。



 あれこれ見てくると、縄文時代の稲作と言うのは、移動型の焼畑農業の中で、他の野菜や雑穀の中の一品種として育てられた、と考えた方が自然に思えます。  
 やはり、従来どおり水田稲作の始まりをもって弥生時代の幕開けとしたほうが良いのではないでしょうか?

 
 水稲か陸稲かということは、単なる品種や作り方の違いだけではないからです。

 

 縄文時代後期には渡来人によって北九州に水稲(温帯ジャポニカ米)が伝えられ、3世紀には日本列島のほぼ全域に広がりました。
(北海道と沖縄は除く)

 無肥料・無農薬の焼畑農業では、ただ山を焼いて、耕さず、種をばらまくだけです。

 3年もすれば土地が痩せ、雑草も生えて、新しい土地に移動しなければなりません。

 しかし、水稲とその灌漑技術は、永続的な単一穀物(イネ)の栽培を可能にしてくれました。 米は元来吸肥力の強い作物で、陸稲で米を作ると、その後何年も作ることが出来ないほどでした。

 従って、縄文時代にもし米を作っていたとしても、米は畑を荒らすので、それほど多くは作れなかったのではないかと思います。
 ところが、水を張って苗代を作れば、格段に肥料節約作用があることが分かったのです。

 荒地にも育つ雑穀と混作しなくても、休耕田を設けて米だけを順番に輪作していけば、本格的な定住生活や、家畜を飼うことも可能になりました。  
その上、水稲は陸稲や雑穀より美味で収量が多かったのです。

 

 

 これは日本人ばかりでなく、人類にとって一大革命でした。  
 人間がその智恵と道具を使ってモノを生産するようになったからです(ユーラシア大陸では小麦を、新大陸ではとうもろこしを)。

 自然にまかせるよりはるかに効率よくです。 まさに、本来の農業はここから始まったのです。

 つまり、それまで神様がやってきたそのはからいを、人間がちょっとおせっかいして、もっと効率のよい方法で手直ししたのです。
(このとき神様は何と思われたでしょうか?)  

 さらに、余剰穀物を貯蔵するための貯蔵設備と技術も発達しました。
米は野菜と違って長期の貯蔵に耐えることもできました。

 そして何よりも水稲は、山が多く、雨の多い日本の気候風土に合っていました。

 

 これらの余剰生産物は、人々の生活を安定させ、定住生活を可能にしたばかりでなく、人口の爆発的増加をもたらしました。

 余りにも不自然に急激に増えたので、歴史学者の間では、自然増加と渡来人の比率が、どのくらいだったかということについて、いまだに定説がありません。

それというのも、遺伝子や、血液型や、形態学の観点からしても、沖縄と北海道を除く日本のほぼ全域が、ほとんど渡来系弥生人になってしまうからです。

 

 

 

 

 しかし一方、食糧の生産と余剰穀物の貯蔵は、私有財産や富の集中をもたらし、貧富の差や、権力、身分の差などを次第に生んで行くことにもなりました。  
部族同士の争いや、内外での権力闘争、広大な古墳文化に象徴される中央集権的国家もこの延長線上に生まれてきたのです。  

 好むと好まざるとにかかわらず、あらゆる現代の不幸と争いは、農耕経済の発達と共に、用意されたと言っても過言ではないでしょう。  
≪ 農業は人類の原罪≫と言う人もいるくらいです。

しかし、農業が悪いわけではありません。


  それまで、縄文時代の人々は、驚くほど多種類のものを何でも食べ、世界一の雑食人種でした。 細やかな四季の移り変わりが、食物の種類を複雑で多様なものにしていたのだと思います。  

  水稲が出来るまでは、主食と副食という観念はありませんでした。  
しかし、水稲(小麦・とうもろこし)が生産されるにつれて、その便利さと豊かさ、おいしさに魅了された人類は、単一穀物への依存を極端にまで深めていきました。


 日本民族にとって米は主食であり、神であり、貨幣であり、あらゆるものの価値基準であり、日本文化と精神の物質的基礎であり、中央集権国家の精神的、経済的支柱でもありました。


 しかし、そのあまりにもの執着と偏りは、多くのプラス面と共に弊害も生んでいくこととなります。  

 もし、人類に≪原罪≫があるとすれば、それは農業にではなく、神格化するほどの穀物(米)に対する極端な偏りと、思い入れ、依存と執着にあるのではないでしょうか?

それが日本では一番極端な形であらわれました。

 

 雑食だった縄文人の特徴は、弥生人骨より血液酸性度が低く、骨格の発達が良好で、カルシウムの補給情況もよく、ビタミン、ミネラルバランスがよかったと推測されています。  

 硬いものをよく噛んで食べ、歯並びもよく、虫歯もほとんどありません。歯のすり減り方が激しいことや、あごのエラが張り出していることから、縄文人は現代人にくらべ、はるかに物を噛むことが多かったし、その力も強かったと見られています。

 縄文人の顔は、現代人よりも頭が大きく(脳重量はどうだったか忘れました)、高さが低いわりに横幅が広く、眉隆起が高くなっています。頬骨が強く横に横に張り出して、四角くがっちりした印象で、眼窩も四角形に近いものがあります。  
鼻も高く隆起し、歯並びは正しく、虫歯も少ない。

  なんとワイルドで男らしいのでしょう!

でも女性がこれだとどうなんでしょう!!!
 
 身長は、低く小柄で、男性では160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多いようです(頭が大きくて背が低いとは、ずいぶん頭でっかちです!) 塩は動物の内臓から有機塩を補給していたようです。

 総じて寿命は短かったけれど、疾病らしい疾病はほとんどなく、自然災害、不測の事故、衛生的環境の悪さが短命の原因と思われています。

 

 それに比し、渡来系弥生人(縄文以後、沖縄、北海道を除く日本人の主流を形成して行く事になります―この説明は次号に譲ります)は頭が長く、鼻根もはば広くなり、目は切れ長で、顔は一般的に扁平で、面長、鼻は低く扁平です。
反っ歯も虫歯も見られます。

 以後、鼻の低い扁平顔は、日本人の共通した特徴となって近代から現代まで引き継がれていくことになります。

 歴史学者は、鼻が低いのは寒冷適応した人たちの影響を受けた結果(日本人のルーツは北方モンゴロイドだという説から来ています)のようだと言っておりますが、それは実証的でないように思われます。

 ユーラシア大陸の人たちや、イヌイットの人たちは長く寒いところに住んでいるにもかかわらず、私たちより鼻が高いからです。  

 しかし、2000年以上も変わらなかった鼻の高さも、現代の若者たちはどんどん変えて行ってくれています。

鼻も身長も高くなり、足も長くなってきました。

 

 これは、寒冷現象というより、明らかに栄養の問題が大きいと思われますが・・・つまり、肉食が多いと鼻が高くなるのではないかと・・・・・  <鼻が高いと凍傷に罹りやすいという発想は余りにも単純に思われます。
 
 あのロシア人の鼻の高さはどうでしょう!!!
(ちょっと鼻の高さにこだわりすぎました。劣等感のなす故かも知れません)

 

 弥生人の身長は高く、男性では163センチ前後、女性も151から152センチくらいありました。  
弥生時代には、虫歯やソッパ(反っ歯)、乱杭歯や、八重歯も多くなりました。早く言えば、歯が弱くなり、歯並びが悪くなったのです。

 

 

 日本の学者の大勢(たいせい)は、土器による煮炊きの始まりがその原因であり、歯でよく噛んで食べる習慣が減少し、長い間にあごの骨と歯そのものが退化してきたせいだと結論づけています。   

 もちろんそのような物理的な原因もさることながら、<食のシリーズ>でこれまで見てきましたように、世界のアカデミズムは、単一栄養素(穀物という糖質栄養素)への偏りという栄養学的観点を本質的な共通点として指摘しています。  

  瑞穂の国の日本では、これらは積極的に取り上げにくい観点ではあります。 少し話しがそれたので、元に戻します。  

 塩は、動物の内臓からの有機塩補給より、藻類からの藻塩焼き(もじおやき)によって作られる食塩が使われるようになりました。

 塩分の多い動物食が減り、カリウムの多い植物食が多くなり、ミネラルバランスを整えるための本能的な要求からであったと思います。

 

 縄文人は筋肉が発達しているけれど、弥生人ではそれほど発達していません。

 ここでも、農耕社会になって運動量が低下したせいであろうと、ライフスタイルの変化にのみ、その原因を求めています。

 しかし、近年の運動栄養学は、筋肉をつける為には、糖質栄養素を減らし、たんぱく質を多くとって、トレーニング(運動)することをすすめています。



 縄文人は運動栄養学を偶然実践していたのです。

 しかし、私の考えでは、縄文人は、安定した糖質栄養素が余りにも少なすぎたことと、狩猟採集や、生産性の低い焼畑農業によって得られるものしか食べられず、カロリーや栄養素の絶対量が少なかったので、身長も低く、短命だったように思います。

 自然環境の厳しさ(気温が低かった)も、食糧の調達を困難にしたと思われます。

 糖質栄養素に偏重した弥生人は縄文人に比べて、ほねの酸性度も高くなり、歯ばかりでなく、骨の病気も多くなりました。

 弥生人の小児骨には、頭骸骨が極度に肥厚していて強い貧血の症状を示しているものもあり、このような強い骨変化を伴う貧血は、サラセミアという遺伝病の可能性が高いと報告されています。
 この病気は、アジアでは、広東や香港を発生の中心としており、稲作とともに伝わってきた可能性を秘めています。  

 また、弥生人の中には、頚椎癒合・頭蓋底かん入症・環椎後頭骨癒合症・歯突起形成不全・仙骨形成不全などの先天的な障害をもつ人もいるようです(何か良く分からないのもありますが、きっと骨の異常なのでしょう)  

 また、感染症も多くなりましたが、長くなるので、次回に譲ることにいたします。

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