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まほろばだより−健康コラム−




 世界では人類の足跡は2〜30万年前にさかのぼると言われていますが、日本では遺物が出土していません。火山活動で酸性土壌が多いことが影響しているようです。  
 3万年前ごろから全国的に多数の遺物が出土するようになり、従って今のところ、日本の旧石器時代はこの頃から、1万2000年前頃までを言うことになります。   
 ただし、1967年、沖縄で旧石器時代の人骨(1万6000年から1万8000年前位)が4体発見されています。それは港川人と名づけられました。


 その中の男性人骨の身長は153センチと小柄で、次の時代の縄文人(男性の平均推定身長158センチ)より小さいようです。しかし、額は狭く、顔の側頭筋が発達し、頬骨が横に張り出していて現代人より噛む力は三倍も強かったそうです。

 

歯は強くすり減っていて小さく、前歯はぴったりと合って口元はしまっていて、現代人に多い出っ歯はなかったようです。港川人のこのような顔つきは、大昔の原始的な生活をしている人々に共通して見られるもので、硬い食物を噛んだり、歯をペンチの代わりとして使ったためと考えられています。  

 港川人と縄文人はよく似ている点が多く、この後、港川人が進化して縄文人になったということに関しては学術的に異論がないそうです。しかし、最近では遺伝子型(DNA)の研究によって、新たにいろいろなことが詳しく正確に分かってきました。


 日本でもやはり、硬い食物を食べた太古の人々は、肉食が主体だったにもかかわらず、歯はすり減って鋭いものではありませんでした。

 肉食者の歯が鋭いと言う穀菜食主義者の主張もここでもまた正しいものではありませんでした。この後、縄文時代を経た後、大量の渡来人によって稲作が伝来し、農耕民として、穀物 を主体とした食形態が形成されていくことになりますが、この人々の歯は大きく、かみ合わせも深く、前歯はシャベル状で鋭いものでした。



 旧石器時代の人々は、主として狩猟によって食糧を得ていました。野牛、原牛、ナウマンゾウなどの大型哺乳動物の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中小哺乳動物の骨や、大型哺乳動物を解体する作業場(キル・サイト)が発見されています。また、道具も、植物資源の加工・処理に有利な頑丈なタイプの石器(削器や石斧)よりも狩猟具に使いそうな先のとがった石器や、壊れやすい鋭い刃(石刃・細石刃)のある石器が発達しており、食糧の獲得手段は、狩猟が主体であったことを証拠づけています。
 また、いくつかの間接的な証拠から、漁労も行われていたであろうと考えられています。


 縄文時代といわれる日本の新石器時代の始まりは、氷河期が終わり、大陸と地続きになっていた氷がとけ、切り離されて日本列島が形成された頃にはじまります。それは、今から1万2000年前に始まり、紀元前200年前頃まで続きました。

 この気候変化により、ナウマン象などの大型獣が絶滅し、イノシシ、ニホンジカなど動きの早い中型の動物が主流になり、植物では針葉樹林に変わり落葉広葉樹林が広がるなど自然環境が大きく変化しました。自然環境の変化にともなって、狩猟・採集の中身も変わってきました。大型獣の絶滅で、動物資源が減少し、それに変わって、広葉樹の木の実(ドングリ、クリなど)が採集され、海産の食糧資源にも依存した、複雑で豊かな食生活が展開されていました。

 貝塚からは、  
 アカガイ、アコヤガイ、カキ、イガイ、シャコガイ、マテガイ、サザエ、タニシ、アサリ、ハマグリ、フジツボ、しじみ、にし、あわび、オオノガイ、エビ、カニ、藻類、いのしし、しか、さる、イヌ、タヌキ、くま、うさぎ、ぶた、うま、ナガス鯨、いるか、鳩、マガモ、キジ、カラス、トビ、ヒキガエル、カメ、スッポン、シマヘビ、カブトムシ、鯉、ウグイ、フナ、うなぎ、ナマズ、ボラ、ニシン、タラ、スズキ、メバル、 サバ、ブリ、ヒラメ、ホッケ、 カサゴ、サメ、イカ、たこ、うに、まぐろ、かつお、いわし、鯛、ふぐ、鮭、、クリ、カヤ、シイ、ミズナラ、桃、アケビ、トチノミ、タラノキ、竹、くるみ、豆、ウリ、ヒョウタン、自然薯、ユリ、アワ、ヒエ、ソバ、十字架植物、きのこ類、球根類、コケ類、新芽、果実、樹皮、根…

 調味料として、山椒、レイシ、キサゴ、ミツ、アマヅラな・・など・・など・・  
 その数は、動物約70種、魚類約70種、野鳥約35種、貝類約350種と植物性食品の合計約1500種類にも及ぶ動植物を食べていました。 あらゆる動物の中で人間ほど雑食性の高い生き物はありません、しかし、縄文人のこの超雑食性は世界一といわれています。
 食べられるものは何でも食べたと言った感じです。当時の平均摂取カロリーは低いときは1200カロリー位で、十分に飢えをしのいだとはいえず、体格も悪く栄養失調気味で、こんなにまずそうなものでも何でも食べたのは、食糧が決定的に不足していたのではないかと想像されます。

 


 木の実は石皿で粉にしておかゆのようにして食べたり、クッキー状、パン状の加工食品の材料にもしました。山形県・押出遺跡で出土したデコレーションケーキ状食品には、シカ、イノシシの肉と血液、鳥の卵も加えてありました。

 自然の酵母の助けを借りて、醗酵食品にしていた可能性さえ指摘されています。(左写真:原日本人-朝日新聞社より)  

 最近では、青森県の三内丸山遺跡が発掘され、縄文時代中期後半に、これまでの教科書の常識を覆す高度な定住文化が存在していたことが明らかになりました。食用にクリの木の栽培も行われ、縄文人は食物の栽培と言う高度な技術も持っていたことが明らかになりました。


 それに先立ち、福井県の鳥浜貝塚は、縄文時代草創期より7000年以上かけて形成された遺跡です。ここでは、ヒョウタン、リョクトウ(緑豆)、シソ、エゴマ、ゴボウなどの種子が検出され、縄文人の植物栽培が肯定されるきっかけになりました。


 また、土器、石器のほか、大量の木器や編み物の類、多数の自然遺物、丸木舟や漆を塗った容器も出土しています。もはや縄文人は狩猟採集民という定説はぬり変えられ、世界に類のない高度な文明を持っていたことが分かってきたのです。

 

 このようにして縄文人は定住と移動を繰り返しながら、長い年月をかけて、竪穴式住居や、煮炊きや貯蔵のための縄文土器、石器や磨製石器の利用など発達させ、後期には、簡単な植物も栽培するようになり、しだいに安定した定住生活を営むようになっていきました。3〜4千年前には塩の使用もはじまりました。しかし、自然環境は厳しく短期間のうちに平均気温が3度も上がったり下がったりし、それにつれて人口の急激な上昇や、減少がみられます。縄文時代にも渡来人の多少の移動はあったようですが、大勢は変わらないと思います。


 しかし、厳しい自然環境の中で主として狩猟採集に依存した縄文人が、いかに自然の巨大な力に翻弄されながら、懸命に生きていたかがありありと伝わってくる数字ではあります。平均寿命も20歳前後と推定されています。そのような中で気温の変化や、季節的変動に出来るだけ左右されることのない住居や、栽培することや貯蔵することの知恵を徐々に身につけて行ったのに違いありません。

 余談になりますが、2月26日の道新夕刊には、根室で30年で2度上昇とありました。それにくらべれば、縄文時代の3度上昇したり、下がったりは何千年単位の変化の話で、<寒暖の差が激しく>と表現されているのです。
 比較してみれば、現代の温暖化の異常性がどんなに異常か、改めて驚いています。

 しかし、根室で2度上昇したからといって、現代人の生活がそれほど変わったかには思えません。
 文明によって保護され、自然の変化を体感しにくくなった現代人の鈍感さこそ問題なのかもしれません。
 アメリカのゴア元副大統領主演の映画<不都合な真実>は、ここ10年以内に大変動が起こるかも知れないと警告しています。本当にそうかもしれません。

 

 


 縄文時代後期(約2400年前ごろ)には、稲作も日本に伝えられ、3世紀には日本列島のほぼ全域に広がりました(アイヌの住んでいた北海道や、沖縄の島々には伝わりませんでした)

 稲作は伝来初期には焼畑稲作で、熱帯ジャポニカ米(⇔インデカ米)が、アワ、ソバ、アズキなど雑穀類と混作されていたようです。稲作の伝来をもって縄文時代は終わりを告げ、イネを持った大量の渡来人が日本全土を席捲する弥生時代に入っていくことになります。  

 
 次回は稲作弥生文化を紹介すると共に、古代人の食と疾病の関係を書いて見たいと思います。

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