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まほろばだより−折々の書−
 

 

 

和レトロが最近、そこここと話題になり、映画になったり、街並みが再現されたりしている。

私の昭和二十年代から三十年代の幼児期の思い出といえば、薄暗い茶の間で卓袱台の周りを家族が囲んで、ラジオの声に耳を凝らしていた。
何か浪曲がなっていたような気がする。

「昭和の名僧」法話CD集第5巻 橋本凝胤「仏教の人間観」より (株)エコー  

鏡里や大内山の相撲の実況中継に固唾を呑んで、聞き入っていたシーンも甦る。
 その中で、当時吉川英治原作「宮本武蔵」のラジオ番組があり、徳川夢声氏の名調子に、聞き惚れていたことを思い出す。

何とも言えない、間と拍子と抑揚に、子供心ながら、引き込まれたものだった。

 

 

この滋味溢れる話術の相手に、薬師寺前長老の故橋本凝胤師が居られた。

若き日、私が長老の侍従をしていた頃、よくその話をされていたことがあった。

の話が何と、「天動説」を主張するものだった。
これには、青年期の私も、仰天したというか、呆気にとられた。  
この橋本・徳川対談は日本中の話題になった。

天動説を唱えたプトレマイオスの世界図
科学的にも、どう考えても、地動説が常識で、地球が自転し太陽の周りを公転しているのは、コペルニクス以来の疑いようの無い天体物理学の定説でもある。

そこで、夢声氏唱える「地動説」と大衝突して、大激論になった訳である。

長老の説は、ただ遺物・遺跡を妄信している時代錯誤のもので、これは聞き流すしか手はないなー、と思ったものであった。  

「こっちがじっとしているのに、朝になってお天道様が出てくる、向こうが勝手に動いてるのやよってな。
天動説でちょっとも困らんもの、それでええやないかな」と言うのだ。
さすがの夢声氏も舌を巻いた。

ちなみに、長老は仏教の超深層心理学「成唯識論学」の世界的権威碩学でもあった。  
最後に、師は『お釈迦様のおっしゃることだから、間違いは無い』の一点張りだった。  そして、私に「以信為能入門 信を以って能入の門と為す」の偈を下さった。 



地動説を唱えたコペルニクス著:
「天球の回転について」初本から
仏教の宇宙観:
須弥山を中心とした三千大千世界

かに、我々は地動説を自ら確かめた訳でなく、その知識を教えられて来ただけだ。
もし、コペルニクスの発見がなかったら、未だに天が動いていると誰しもが疑いなく信じて来たであろう。
実際米国では、二十五%もの人がダーウィンの進化論を受け入れないのは元より、天動説を固く信じていると言う。

このことは、太古より人類は太陽や自然の恩恵を受けて生きて来たことを忘れてはならない、という文明批評やアイロニーであるだけに留まらない深い真理が隠されていた。


のような事を、とうの昔に忘れていた頃、先日「三軸修正法の講演と実践会」と銘打って、まほろばで講話会を開催した。

そこで、三軸修正法の創始者・池上六朗先生のお話の中に、この天動説の話が出てきたのだった。

先生は、若い時から地動説を前提とした航海士としての知識があって頭でそれを理解したつもりが、世界を七度も回ってみても、どうもすっきりと「腑に落ち」なかったという。

地球の中心に向かって引力があって、海水も人もすべての物も、引っ張られていると教えられている。
5月13日、まほろばで体験実技会を開いての様子。
★この修正法は毎木曜日、まほろば「ホロスの丘」二階で池谷氏が施術しています。

しかし、教えられたことと、腑に落ちることにはギャップがある。
当然とは思え、遠いところで釈然としない、幽かな想いが燻っていることを否定しようがなかったのだ。  
地動説は正しい。
しかし、生活する日常感覚で誰一人として地球が丸いとは感じてはいない。

著書:「三軸修正法」¥2100(まほろば扱い)、「身体の言い分」内田樹共著
大地はあくまでも揺ぎなく、太陽は東から昇り、西に沈む認識からは抜け切れない。

北半球に立つと南を向けば反り易く、北を向けば前屈し易く、西を向けば右に傾け易く、東を向けば左に傾け易い。

南半球に行けば、三日月も星座もひっくり返って見える。

これらサブリミナルとして意識下や体の本性において、人は地球が円いことを知っている。
しかし、それが意識上に上らない。
意識レベルでは人は天動説なのである。

やはり天が動いているという事実がスッキリするということだった。
見えないものは、見る必要がない、見てはいけない。
臓器が見えないのは、見る必要がないからだ、というのだ。
確かに合点が行く。

その後、池上先生は、この体感した感性と知識・技術を結晶させ、『三軸修正法』という体の本性に聴く独創的な整体術を編み出すのである。
 知識と感情にズレ、ヒズミ、ユガミが生じている。

これは、現代の科学や学問が進んでも、ちっとも人類は幸せになっていないことと無関係ではない。

果たして知識は、人を幸福に導いたであろうか。  

 



の池上先生の偽らざる述懐に、突然あの凝胤長老の説が脳裏に甦ったのだ。  
果たして、地球は回っているのか、という素朴な疑問を問いただしても、
良かった。  

最先端の量子物理学では、自分が存在しないとこの世界はない、
つまり認識出来ない、という理論に通じる。
この五感を通じて、確かにこの世界は実存していると認識している。
それは、人間の共通認識として共有している。
果たしてそうであろうか。
 
仏教では、「色即是空」という。
この物質界は仮和合、つまり仮に和合しているもので、実は空しく、何も実体がないと説いている。

この釈迦の説法を信じられるだろうか。
実に、物質世界は、ありありと眼の前に在って、疑いようもなく実在する。

これが無いというならば、それは妄信以外の何物でもない、と断言しても良いものだ。
しかし、最先端の科学分析器で仔細に物質を見ると、粒子は極刹那の時間内に生滅して、粒子同士は各分子間を歴訪して、一所に留まることがないという 。 実は一定の所に物質は無く、ただ動いているだけで不定なのだ。

その激しく動く運動を、我々は、物が在ると認識、つまり錯覚している。
思い違いをしていたのだ。


国唐代、頓悟禅を開いた六祖慧能大師の言動が『無門関』に出てくる。

………遇印宗法師於法性寺講涅槃經,聞二僧對論,幡動風動,進言:「仁者心動」,……  寺の法要では幡があがって説法が行われることを知らせる。

その幡を見て二人の僧が議論を始めた。

「幡が動いて風を起こしている」と言うと、他方は、「何を馬鹿な、風が幡を動かしているに決まっている」と果てしなく激論が続いた。

そこに居合わせた慧能祖は、  
「幡が動くのでも、風が動くのでもなく、汝らの心が動いているだけだ」と説いた。

さらに続け 「心が動いたのでもない」と。
「では、何が動いたのか?」という問いに、 「何も動いていない」と、答えたと言う。

主体である自分を超え、客体である周りのものも超え、そうした一切すべてが一つになる。
つまり、自分自身が絶対主体の大自然そのものになれば、最早動くも動かなくもない。
六祖慧能大師:肉体をもってミイラ化した坐像。


球の自転により、太陽が昇るように見えるだけだと理論を教わっても、それは知識であって情緒ではない。
知識からは、日月への素朴な祈りや感謝は生まれまい。

池上先生の心のように、公転も自転もなく、朝日は昇り、夕日は沈む、としか心情的に思えないのだ。
昇る旭陽に幸いを祈り、沈み行く夕陽に感謝を捧げる、この変わらぬ人の営みや心情の自然性を消すことは出来ない。

科学的にいずれが正しいかは自明だが、実はこの自明の理が曲者で、この科学的な理論知識のために人類は混迷の淵に陥ったかもしれない。理詰めの正しさを説くも、感情が納得しなければ、人は心の真の安らぎを得られない。  

かつて数学者の岡潔先生は  
「数学は感情が納得しなければ成り立たない」  
と情緒の大切さを説かれた。
知・情・意それぞれの世界は情緒を根底としている。
果たして、科学万能の現代社会が、その獲得した末の結果が何であったかは、説くまでもない。  

混迷と絶望の中で無明の闇を深めているのは、人間の作り出した規律や知識によって縛られた呻きのようにさえ思える。


は、我々は五感という肉体に即した感覚器官で世界を認識しても、本当の実相を見ていないのかもしれない、という事実。
この世は、転変として変わる苦しみの世界と認識しているかもしれない。
天国は死後にあって、或いは、死ねばそれまでだと思っているのかもしれない。

しかし、案外、天国は死後にも、何処にもなく、実はここにあるのかもしれない。  

地が動くのも、天が動くのも、いずれも当たらず、実は自分が動いているのかもしれない。
自分が動いているが故に、天も動き、地も動くのかもしれない。

さらに、終には、何にも動いていないのかもしれない………………。

 

 

2007年6月8日記

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