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まほろばだより−折々の書−
 

 

 

 

 

 

G.ハンコック氏(右)とE・デラヴィ氏(左)、大明見の宮下本家の石蔵にて、古文書の原本を披瀝する。06年11月25日

 

 

 

 

 

 


 亡き父が、生前80歳を過ぎて、富士山の河口湖畔の宿に一泊したという。
 「宮下さん、宮下さん」と、売店で呼び止められたので、ふと後ろを振り向くと、人違い。同じ店員さん同士の会話だった。

 ここ富士吉田近辺は、宮下の姓が多かった。  

 父は、ここ湖畔に漸く辿り着いたのだった。



 

 

 


 しかし、後15分、いや後10分だけ、車で足を延ばせば、夢に見た祖父の実家や、その故郷を見ることが出来ただろうに。

 生涯一度も、その父(祖父)の顔を見ず、郷里を見ずに、82歳の生涯を閉じた。それは28歳で早逝したため祖父方との交流が、百年もの間途絶えていたからだ。  
 私が、この明見の地をあと五年早く探し当てたなら。父はどんなにか喜び、どんなにか涙したであろうか。
 従弟同士で抱き合っている様子が見えてくる。人生に、新しい花が開いたはずだった。
 そんな想いがふと過ぎった時、講演前に、胸が詰まってしまった。


 会場には、今年1月に百年ぶりに探し当てた明見の親戚の人達が20名もわざわざ来てくれていた。

 百年も番地が変らないほどの不毛の地の静かな山里は、富士の神々に守られながら情け深い、素朴な人柄を育んで行った。今、その血筋が流れていることに感謝し、手を合わせたい有難い気持ちで一杯だった。

 
 

 

 

宮下の親戚一同とTHDの近藤洋一社長、ロッキー田中さん達と記念撮影。
 

 

 


 

 

 

 
 11月27日、京都のトータルヘルスデザインさんが主催される東京でのグラハム・ハンコック氏の「スーパー・ナチュラル」の講演。その前の二日間、富士山やそれにまつわる古代史を探る「富士ツアー」が企画された。
 これから、ここ河口湖レイクホテルでの講演会が始まろうとしていた。目の前には、世界的古代史の大家、グラハム・ハンコック氏が座して居る。
 最初に私が「富士古文書(宮下文献)」について、話さねばならなかった。

 
 

 

 


 私は、歴史に関しては全くと言っていいほど不案内、無知同然なのだ。学生時代、世界史も日本史も、さしたる興味すらなかった。考古学も面白いとは思うものの、あえて深入りする動機は何もなかった。

神傳富士古文献大成 写真版
 

 

 


 8年前、何の知識も経験もないまま、エリクサーを創ったように、今また大胆に日本の歴史を語ろうとしていた。 それは、先祖の声を代弁する何かだったような気がした。
  私の体を通して、何かを訴えたかったのではなかろうか。到底、そうとしか思えない立場の私が居た。



 

 

 


バスの中で、グラハムさんとエハンさん、共にご夫人同伴。車中講義。

 その前日、富士山ツアーのバスの中で、参加者の質問に答え、ハンコック氏は大洪水伝説、殊にアトランティス大陸の滅亡に関して話して下さった。
 世界の神話や各地の伝説伝承、或いはおとぎ話など、この洪水にまつわる話は世界各地で数千種に及ぶという。
 

 

 


 この探査は相当学者間でも進んでおり、綿密な地質調査などで氷河期の終わり、それは11,500年前頃ということに落ち着いている。それはアトランティス文明の滅亡と呼応して、その生き残りが、あの旧約聖書のノアの方舟伝説に連なっている。

 

 

 

 方舟が漂着した所が、何と中央アジアのアララト山であることが、宇宙衛星ランドサットの写真に収まったことで、その当時世界を賑わせた。
  そこから新しい人類の文明と歴史が始まったことは、聖書に詳しい。しかし、それは、どちらかといえばユダヤ・キリスト教圏の話で、東洋は何か別物、取り残された感じを誰もが抱かないであろうか。

 中国・宋代、易経の大家・邵康節は『皇極経世書』の中で、時間に関して愕くべき内容を公開している。この世界は全て数理で成り立っていて、この宇宙の始まりの歳、終わりの歳まで事細かに明示している警醒書である。世界は元・会・運・世の循環によって巡り、さらに大元が巡って極まりなくも、遂には宇宙にも終焉があるという。

ランドサットによりノアの方舟を確認
トルコのアララト山 ここから下ったのか。
 

 

 


 宇宙運転の万年暦で、一元は12会=360運=4,320世=129,600年とされている。一元の中に12会、一会の中に30運、一運の中に12世、一世は30年とする。この一会が10,800年という長さである。一年の中に春夏秋冬の四季があるように、一元129,600年の中にも地球的規模の四季が巡る。今は天地が始まってより七会(午会)の2運に当たる。

 

邵康節
 

 

 

『皇極経世書』


 今は午未の交替期であり、前期は巳午の交替期で、夏から秋への台風の季節のように、この変換期に大きな災害が起こるという。現在の七会の二運(2/30運)は、巳午の会から数えて一会(10,800年)+二運(360年×2)=11,520年となる。

 何と、それはアトランティス大陸滅亡11,500年と同じではないか。易の暦数と考古学の年数が一致している!!それがいわゆる世界的規模の大洪水として起こり、それ以前の文明は悉くこの世から消失したのではなかろうか。

 

 

 


 

 

 ちなみに、天地開闢してより、今年平成18年(昭和59年甲子)で69,052年となるという。地球の寿命は一元(129,600年)の二乗、銀河系の寿命は一元の二乗の二乗と言われて、四季が巡るが如く輪廻して、やがて地球と宇宙も死を迎える。

 

 

 

 

 

 


 本家の宮下義孝さんにもお越し戴いて、手短に古文書の紹介を戴いた。当家で82代目。一代30年として2,460年、ほぼ皇統2,500年の長さともなる。実に紀元前のことである。富士山北麓の片田舎で営々と家脈を継いで来たことへの驚き。調べるほどに、日本の歴史に散在した地方史などの古史古伝が埋もれた裏の歴史を始めて垣間見る。

「古事記」(和銅5年(712)、 日本書紀(720)編纂より遡ること、およそ九百年前に書き始められた「富士古文書」の特徴を言えば、日本人が直接記録したのではなく、中国からの渡来人・徐福が神代文字や伝承を漢字で筆記したと言われている。そこには自国人による神から選抜された自画自賛的な選民主義の匂いがなく、客観的・叙述的な描きぶりで終始している。古事記や日本書紀に登場する神々も神話ではなく、実在の人物として画かれている。 
 来朝した秦の徐福が、BC217年10月4日に駿河に上陸し、富士山麓を最終の地として、その子孫を遺して、この「富士古文書(宮下文献)」を書き留めたという。時を同じくして、全国各地に伝わる徐福伝説が、到底創作されたものだとは考えられない。

明見湖の徐福像
 

 

 


元伊勢の徐福祠

徐福渡日行程図

日中徐福会、手前:宮下古文書研究家・渡辺長義さん 椅子:宮下義孝さん。あとは中国連雲港市からの中国徐福会視察団。(山梨日日新聞より)

 


 1982年、中国江蘇省韓楡県で、徐福村(現・徐阜村)が発見されて、本国において徐福が初めて学術研究の対象となった。事実、日・中・韓の『徐福文化学術研討会』が立ち上り、共同研究を開始。「日中徐福会」は、宮下本家にも訪れ、徐福終焉の地として富士吉田・明見を視察され友好を深めている。1950年、中国・燕京大学の衛挺生教授は『神武天皇=徐福説』を唱えるほど、徐福と日本史との深い関わりを指摘して、綿密な調査と大胆な仮説を発表した。その説を採らないにせよ、ここまで来ると徐福の来歴に目を覆うことは出来ないのではなかろうか。しかし、アカデミズムの古代史家は、これを是認しない。日本の正史では登場しないからである。しかし、「・・・平原広沢を得、止まりて王となりて来ざらき・・・」などと『史記』『漢書』や『義楚六帖』等には、徐福の動向を明らかに書き記している。

 

 

 

 

 

 


 大正時代、この宮下文献を読んだ工学博士・神原信一郎氏が、富士山麓の地質をあまねく渉猟調査して、溶岩台地に埋もれた幻の古代都市・家基部の伝承を検証した。富士北麓の郡内地方を流れる桂川に西湖から流れる地下水脈を発見して、延暦の大噴火(800年)以前は地表の河川であったことを突き止めた。自ら想定した位置に、古代に太田川が存在した記述と地図を古文書の中に見出し、延暦以前に遡る確実な伝承の核があることを確信したのだった。

 

 

 

 

また、古文書の中の『海伊国開闢暦記』には、伊豆半島は駿河湾に並ぶ島であったが、本州との間に陸橋が隆起して伊豆半島になったことが記されている。現在のプレートテクノ理論による伊豆半島の形成過程と一致して、古代史実が現代の地理学・地質学・考古学的信憑性を裏付ける記述がなされていたのだ。

 それにより富士北麓に、かつて富士王朝文明が存在していたことを主張したのだった。それは、高千穂や大和朝廷以前の王朝の存在を明かしたものだった。その証左となる三輪義熈氏の畢生の著書、114種からなる富士古文書のダイジェスト版『神皇記』を当時のマスコミは挙げて大絶賛したのだった。その古代の学術的記述法は当代の文化人をして説得するものがあった。そして、また壮大なるスケールの皇朝の歴史は、先の世界人類史とも明らかに連動するものだったのだ。  

 

富士地質調査のために登山する馬上の神原博士。
古代都市・家基都と富士周辺の古地図。延暦の大噴火後の地図。(神皇記より)
 

 

 

 

 

 


「神皇記」三輪義熈氏

 


 「古事記」では神武天皇以前の鵜茅葺不合尊(ウガヤフキアエズ)朝を一代としている。しかし「宮下古文書」では、実は51代(神后摂政の22代を含めて73代)の2,750年間続き、さらに天之世七代を含め神武以前の神皇期・人皇期の85代の7,500年と神武朝以後の皇統2,500年を合わせると10,400年前と記している。
 

 

 


 これは、ハンコック氏が語った11,500年前のアトランティスの滅亡や、邵康節の一会二運11,520年と年代が近似値で符合しないだろうか。 
 世界的規模で起こった天変地異。そのカタストロフィーは地殻変動やポールシフト、隕石や彗星などが引き起こし、再び同じ周期で起こりうるかもしれない。
 

 

 

 

 前日ハンコック氏の語るこの数字を聞いて、雷に打たれるが如き閃きが走ったのだ。  神話化された天孫降臨、つまり日本人のルーツは、世界的洪水が引いた後、東西を分けるウラル山脈の南端、シルダリア・アムダリア河がアラル海に注ぐパミール高原や、チグリス・ユーフラテス川の水源となっているアララト山などの中央アジアの高地から天下って、インド・東南アジア沿の海路を南下して北上したのが真相ではなかろうか。また北回りルートの韓国経由の騎馬民族も含めて元は一つである。

 

第一代から第五十一代までのウガヤフキアエズ朝歴代の表。在位、寿命、神后名等、詳細をきわめている。
 

 

 

 

 

 


 先端の遺伝子工学でも日本人のDNAが北から中央にかけてのアジアが出自であることが最近発表された。さらに比較人類学の立場からも、人骨や歯の形などが同系に属することが証明されている。

 

 

 

日本最古の集落 大明日見

それらを統合するかのように、宮下文書の初めに、それを明示する記述があったのだ。高天原天神七代に国常立命(農立比古)が高天原(中央・西アジアの高原)から兄弟四十八年後先になって日本をめざし東遷したとある。
 

 

 

 海のシルクロードを通り、辿り着いた山が同じコニーデ型の富士山麓であったのだ。中央アジア高原から東西に南北に人類が四散して、土地風土に適応した各々の民族が形成されていった。それは世界的規模の神々の活動、民族の移動による先住民の汎ユーラシア的同一性とも言うべきものだった。更に、この古文献には愕くべき隠された史実が盛り込まれているが、それは別稿に譲りたい。 このように宮下文書は、人類史的・世界史的スケールで書かれた一大叙事詩である。

 

 

 

 

 

 

 


 私は、日本民族のこれまでの歴史観をこれによって否定し、蒸し返す訳ではない。むしろ、青年期から養って来た国家への思い入れは人一倍強いと自負する。しかし、また人類は一つであるという根底的な世界観・宇宙観も又同じように持ち合わせている。相反するこの思いは、私の中では決して矛盾するものではない。 世界は一つとなるためにも、まず日本人はしっかりとその足元を見つめる必要があるのではなかろうか。つまり自己を知る、そして己を育てた日本を知ることが目下の急務と信じる。

 18歳から22歳まで、私は茨城県の筑波山に通っていた。そこに「梅田開拓筵」という古神道を伝授する青年鍛錬の場があった。

 

 

 


 その苑主・梅田美保女史は、当時人生を彷徨っていた私を救い出して下さった慈母であった。皇統秘伝の儀式を伝承する故伊和麿翁は古事記の奥義に通暁した神陰流免許皆伝の武道の達人でもあった。


この手紙は今から九十七年前、実践女学校(下田歌子開創)に在学した坂寄紫香女史に学友から送られたもの。女史は香道・薙刀の達人であった。「安岡正篤:明治の風韻」
 

 

 


  朝に夕に、磐座や鳥船行を修し、日本に亡命された汪兆銘政府の高官だった胡蘭成翁の「大学・中庸」や湯武革命論など、尭舜泰世の道の講義を拝聴した。この時、中国大人の悠揚迫まらざる風格を真近かに拝したのだった。氏の隷書は、私の書を観る眼を養った。時に、あの安岡正篤氏も推す小笠原流の坂寄紫香女史の老齢ながら凛然とした背筋の通った日本女性に接しては眼を見張った。
 そこに、数学者の岡潔先生もお越しになっての講義、日本民族の心や情操の深さを学んだことは、生涯を決定的に方向付けるものでもあった。岡先生の「春宵十話」などの随筆や胡先生の「建国新書」に載る日本人ルーツ論が、今回の話と一致する点、これは私の中で四十年かけて無意識のうちに熟成して来た結果だったのかもしれない。

 今思い起こせば、こんな不思議なことがあろうか。偶然とはいえ、若き日に皇統の真髄である古神道を学び、今又、宮下家の子孫として宮下古文書を解説している。何が運命というより、宿命的なものを感じざるを得ない。しかし、私は何宗でも何派でもない。私にとっても、誰にとっても、根本は一つであり、一即多、他即我がすべてである。0―1テストもここより来ており、真理もこの一に帰る。


 

 

 

 

 

 

「国家の品格」藤原正彦著 新潮社刊

 日本の歴史の真相は、どのようなものであるかは解らない。しかし、その結果が、今であり、自分であると言うことだけは、真実ではなかろうか。  
 ただ、今の日本に心傷める。だが、一縷の希望も見出す。身近には、藤沢周平作『武士の一分』など一連の日本映画の底に流れる武士道によって磨かれた心情の美しさ。これに涙す日本人は見捨てたものではないと思うのだ。また、藤原正彦著『国家の品格』が爆発的に売れる現象も、多くが日本の今のあり様に危機感を抱いているためではなかろうか。
 

 

 

 
 この心を培うのは、日本の歴史や文学によって、その美しき心情を学ばねばと思っている。果たして、戦後教育が是なるかは、既に答えが出切ったと思っている。戦後復興の名の下に、自由教育が他を押し退けて、我先の物質主義の先行が、遂には何処にも引き返し難い悲惨な状況を作ってしまった。青少年を教育する私達壮年層が、既にその支柱を失っているのだ。失うというより、元より知らないのだ。

 この五、六十年の喪失は百年の大計どころか、その果が何百年にも亘って尾を引くであろう。だが、しかし、逆に、何千年にも亘る日本の培われた情操が、たかが五十年の実験で、消えるはずはないと信じたい。 昨今の眼を覆いたくなる痛ましい事件。いじめの子もいじめられる子の根底にも、この心が眠っているのだ。滔々と流れている思いやりの心や謙譲の美徳、平和で温順な心の復活は、必ず来ると信じる。そのためには、もっと日本の文化や歴史を学ぶ必要がある。

 幸い、最近幅広い年齢層が、世界各地の民族を尊び、その文化を学び伝えるという潮流が起こっている。グローバリゼーションという美名の下に巨大勢力に、固有の民族や文化が失われてゆく今、他を尊び、自国を守ることが最も肝要ではなかろうか。若人の中から農業を志したり、伝統芸を志したり、寺社を巡ったり、古文を暗誦したりの古しくして新しき風が吹いていることは好ましいことだ。これは、希望への大きな回帰現象であると思う。
 

 

 

 

 先日惜しくも96歳で逝去された漢字学者の白川静博士が、いみじくも語った。 「一文字を以って全ての情報を一瞬に伝える漢字文化は世界に冠たるものだ。他言語に比し七倍という伝達速度である。
 しかし、漢字を中国本家は簡略化し、韓国やベトナムなどは用いなくなった。唯一それを継承している日本は、それから仮名、片仮名などを発明し、漢字と共に併用している。
 かくの如き文化は世界広しといえども、日本だけである。日本人の持つ使命と能力と役割は大きい。」と訴えられて、大事業を遺し、あの世に旅立たれた。日本人未だ死せず。身近な日本文化に接して、日本を建て直す一つの材になればと、願うばかりだ。

 

DVD『白川静と漢字 東洋の精神』発売元: 紀伊国屋書店
 

 

 

 

 

 


ハンコックさんと首藤尚丈さんとで、立石茶屋で。

 


 既に、富士山の写真家ロッキー田中さんは、宮下の親戚にうどんを作ってもらったり、泊まったり、と交流を深めているという。先祖と繋がることで、又人の輪が拡がっていることが何よりも嬉しかった。今回の広がりも、温かい先祖の手招きだった。  
 

 

 

 そこに、何か生きた歴史を学んだ。

 そして、二日間、「天晴れ、快晴!」というべく富士山がありありと全てをさらけ出すかのように、その壮麗の容姿を誇った。それは、歓迎一色のもてなしであった。  
  講演後、晴れ晴れとした気持ちで、祖父の郷里を後にした。

 

 

 

 

 

 

 


 講座の朝6時に風呂場に向った。途中、咄嗟に露天風呂があることを思い出し、もしかしたら日の出の富士が見えるかもしれないと、ロビーまで一目散。

「露天風呂は昨日の晩から予約しておかないとダメなのよー」

  と叫ぶ妻の声にも耳を貸さず。フロントで名前を聞かれ、

「宮下です」

 と告げると、どういう訳だか

「ハイ、どうぞ」

 と、スンナリ鍵を渡してくれた。

「ラッキー!」

 とばかり、二人で一目散に駆けた。
 静寂な朝まだき、窓越しに今、日が昇らんとする荘厳な富士の全貌が飛び込んで来た。かぎろいのような光背が、忍び寄る朝日にかき消され、次第に日の出が近づくにつれ光彩を増して行く。
 左半分から右半分へのグラデーションは音のように、移り行く色は声を呑むかのようであった。
 それは、神々が物事の本質を、姿で演出しているかのようでもあった。  

 しかし、感動はそこまでだった。
 半時ほど、ゆっくり富士を堪能し、鍵を返しにロビーに行くと、昨晩から予約されていた、何ともう一人の 「宮下さん」が、不満気なお顔で待っておられたのだった。
 只々、申し訳ない。係りの方と夫婦して平謝り。東京の宮下さんは苦笑い。  

 妻は言う。

 「宮下さんには申し訳なかったけど、偶然にしては出来過ぎている。きっとご先祖様が、あなたの講演の前に、日の出の富士を拝ませたかったのヨ!!」

 「うーんーーー、そうかもしれない」

 と内心、うなずいた。 ここで、思わぬ名の余徳に預かった。

 『宮下さん』すみません。

 『ご先祖さん』重ね重ね、

    ありがとう……ございます………。

 

 

 

 

ロッキー田中さん、噂の『 河口湖のピンク富士』。雑誌「壮快」で幸運を呼ぶ写真として取り上げられ、 今全国で大ブレーク中!! http://www.rocky-fuji.com/

 


 

2006年12月7日記

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