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2007年05月16日

●花神

花神 1.jpg

間違えて、このチョコレートケーキ食べないで下さいね。

昨日まほろばで行われた貝田講師による
「花サークルKARIN&体験レッスン 5月」。
『あなたもプチパテシェ*チョコレートケーキをつくろう』で作られた
おいしそうな『花ケーキ』なのです。

・・・・現代という時流は、
又、花に新たな命を吹き込む。・・・・・・・

夕刻、花サークルの代表・森直子さんが来店された。
今、あらゆる仕事や人を絶って、ご自分を見詰められているとか。
新たな森さんが、「花ボランテイア」や「植林による森再生」に取り組もうとされている。

森さんの文章で、心に響いた一文があるのでご紹介したい。

>「 切り花の生命 」          
文・森直子 抜粋   2006・11・30

 切り花は根を切られても生きています。
生命力の根源である「根」。それを絶たれても切り花は生きているのです。
余命を宣告された人間と同じです。
花を目の前に与えられた時、私たちをやさしく癒してくれる花のために出来ることは何か。
それは、少しでも美しいまま元気で長生きさせてあげること「延命」、
思いやりを持ち接してあげること「いたわり」「慈しみ」です。 

色、香り、姿形、雰囲気など、そのさまざまな持ち味で、
私たちの五感を楽しませてくれる役割をもち、産まれてきて、育てられた切り花。
だからこそ自分に花が与えられた時、何かしてあげられることはないだろうか・・そう考えるのかもしれません。
思いやる、気使う、個性を生かす、与える、保護する、など、例えて言えばきりが無いほど、たくさんのことがあると思います。
でも、一番花が喜ぶのは、手元に花が来たとき、その人がその人なりに、花を大切に思い、愛情をかけること。そう思います。

花は無理を私たちに強いることはありません。
忙しくて手入れができず、枯らしてしまっても、水を取り替えることが出来なくて、腐ってしまっても、
花首を折ってしまっても、どんなときも何も言わず優しく微笑んでくれるのです。
ですから、私たちは出来ないから、出来なかったから、といって、罪悪感を持つ必要はありません。

こうしなければいけない、そうすべきである、とうことは何も無いのです。
花はそれをわざわざ私たちに望むことはないからです。
花がそこに在り、私たちがそこにいる。ただそれだけなのです。
それが、切り花というものが人の心に感動を与えるほどの美しさたる由縁ではないか、とそう思います。

切り花にはとても不思議な魅力があり、底知れぬ強さと生命力があり、枯れてもなお、命を感じます。
「今このとき」のみを生きている、逞しさすら感じます。
花を察することで、自分自身を見つめ、考え、発見したり、気づきを得ることが可能になるのです。
切り花に対峙するとき、人は心を開きます。
切り花はその瞬間を生きているだけで、何一つ、思いがないからです。
それが人間から見たとき、不思議な魅力に映り、強さや逞しさを感じるのかもしれません。

生命の根本を絶たれてもなお生きて存在しているもの、それが「切り花」なのです。
花神  2.jpg

http://harufds.hp.infoseek.co.jp/index2.html

以前、頼まれて書いた「花神」という字の額装されたものを、見せてくださった。
「『花の美しさ』といふものはない、美しい花があるだけだ」と、小林秀雄は言ったが、
果たして、花に神が宿るのか、神が花なのか。
おそらく、花が神で、神が花なのだ。

咲くことも、枯れることも、美しい花なのだ。
人それぞれに、それぞれが美しい。


(しばらく、ネパールに行ってきますので、ブログはしばしお休みです。)

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おみやげ話を、楽しみにしております。
良い旅となりますように!

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