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2007年08月10日

●松村禎三氏の死から

国立劇場.jpg

18、9歳の頃だったか。
皇居横の国立劇場で、薬師寺の声明公演会があり、聴かせて戴いた。
その帰り、橋本凝胤長老に挨拶のため、楽屋を訪ねた。

声明会.jpg

その時、「題名のない音楽会」で有名な
作曲家の黛敏郎さんも、同席されていた。
長老が黛さんに、私の事を紹介してくださり、
「この子も、音楽をしたいから、面倒見てやってほしい」
と言って下さった。

黛敏郎さん.jpg

黛さんと薬師寺の関係は、
氏が「涅槃交響曲」を作曲する時に始まる。

全国のお寺の梵鐘の音を収集して、
NHK電子音楽スタジオで音響スペクトル解析し各楽器のパートに配分、
また声明も採譜されて、男声合唱として合体させ、
荘厳な極楽浄土の様と東洋的瞑想風景を
西洋のシンフォニーの形で表出されたのだ。

「カンパノロジー・エフェクト」と自ら呼んだこのアイデアは、
現在フランスの現代音楽シーンを約20年も先取りするものだった。
今もって、世界の現代音楽の古典として燦然と輝いている。

涅槃交響曲.jpg


その後、黛さんに連絡して、お宅にお邪魔して話を伺った。
奥様は女優の桂木洋子さん、ご子息は演出家のりんたろう君でまだ小学生だった。

作曲の部屋に案内されたが、フランス製アップライトのピアノがあり、
(武満さんに贈ったピアノと同じだったかな?)
大きな譜面台に、その時作曲中の書きかけの楽譜があった。
あの日、若い私はときめく胸の高鳴りをどう抑えたのだろうか。

その後、赤坂だったか、記憶がハッキリしないのだが、
専用のスタジオに案内して下さった。
そこは、ミュージック・コンクレートや電子音楽を作る音響機械が網羅されていた。

黛さんは、フランス帰りの気鋭の作曲家として、
今日のコンピューター音楽の魁でもあった。

松村禎三さん.jpg

そのスタジオに、作曲家の松村禎三さんも、
電子音楽の作曲に没頭していた。

私も高校時代、札幌のSTVのスタジオを借りて
徹夜して音楽を作ったことを思い出していた。
松村さんは、大阪万博のための依頼曲らしい。
それを聞かせて戴いた。

松村さんが、私を見て、黛さんに
「あなた、弟子をとったの?」
と聞いた。
(そんな事あるはずはない。)

その後、どのようにして帰ったのか、記憶がないのだが、
松村さんと黛さんと一緒に居合わせたシーンが、突然甦った。

それは、先日朝刊を見て、松村さんの死を知ったからだ。

その楽曲は、一つのテーマを執拗に追い求めてゆく
師の伊福部昭さん譲りの粘性のあるもので、
その集中性は魂のカタルシスを伴うものだった。

それは多分に彼が、
俳句を吟じる一面の資質によるものではなかろうか。

松村禎三さん 2.jpg

そんなこんなも、青春の1ページを飾るもので、
その当時、前衛音楽の志を払拭するのに、
哀しいまでの辛い思い出があって、
それが、今となっては滋養になったのかもしれない。

その頃、師と仰ぐ多くの出会いがあったが、
今、そのほとんどが鬼籍に入ってしまわれた。
そして、私が、その歳になってしまっていることに、
今頃気付きはじめた。

人生は、短い。
「人は、中々変われないなー」、
と歎ずるも、
「こんなもんで、いいんでないかい」、
と諦めている自分も居る。

それが、
自分に「老い」を受け入れる
自然の音声(おんじょう)でもあった。

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