●発想法のすすめ 2
灰屋紹益(はいやじょうえき)は、本阿弥光益の子で、本名佐野三郎重孝、富豪灰屋紹由の養子となり,通称を三郎兵衛、剃髪して紹益と号し、「法橋」の法位を授かっていた。
元より、佐野家は、南北朝時代から紺を染めるための灰を扱う豪商で、元禄期の京都を代表する町衆の一人だった。灰買人として全国に3,300軒もの生産者を抱えていた。
捨てるはずの灰を菜種油などと物々交換で集めて節税し、それを農業・酒(酢酸発酵した酒の中和剤として)・和紙・染物(紺灰として。藍玉から紺色の染料を取る際、藍を発酵させるために用いる木炭)・焼物(釉薬)など様々な産業分野に利用販売して巨万の富を築いた。
畑の字は漢字で火と田の組み合わせで焼畑農業を意味する。畠は白い田の組み字の国字である。この畠にはカリ分の栄養素がなく、灰を蒔く事でよく作物が成った。本来、植物はカリが主成分で、灰はカリウムで必須成分なのだ。そのため、多くの農家に広く売れ、農業の再興に貢献したのだ。灰の市に関しては、柳田國男の「火の国」に詳しい。
紹益は、単なる商人に留まらず、和歌を烏丸光広に、俳諧を松永貞徳に、蹴鞠を飛鳥井雅章に、茶の湯を千道安に、書を本阿弥光悦と言うように、当代一流の人物から学んだ知識文化人でもあった。
また、井原西鶴の「好色一代男」の主人公世之介のモデルとも言われた。
この、紹益の最初の妻となったのが、本阿弥光悦の娘だが早逝し、後妻を迎えたのが、当代きっての名妓と言われた二代目吉野太夫その人だった。 吉野太夫は、実に聡明にして、和歌、連歌、俳諧は無論、琴、琵琶、笙の管弦をよくし、書、茶湯、立花、貝合わせ、囲碁、双六に至るまで諸芸万般すべて達人の域に達し、その名声は遠く明国にまで聞こえた。
「好色一代男」の中では、七条の小刀鍛冶駿河守金綱の弟子が吉野を見染め、せっせと小金を溜めたものの太夫を揚げることができない身を嘆いていると、それを聞き知った吉野は不憫に思い、ひそかに呼び入れて一度だけ情を叶えてやる、と言う話が出て来る。この話を聞き知った紹益は、その心意気に惚れて、吉野太夫を身請けした。しかし、恋がたきの公卿と張り合い、千三百両を投じた末のことであった。これで、父から勘当された話は有名で、この父が、雨にあって傘を借りに入った家の妻女の、茶立てやその外の振舞が礼にかなっているのに感服、その妻女が吉野太夫である事が分って、勘当をゆるしたという逸話がある。
しかし、二人の幸せな期間は、長く続かず、吉野太夫は身請けされて12年ほどたった38歳の時に亡くなった。紹益にとり、身を引き裂かれるほどの悲しみだった。
「都をば 花なき里と なしにけり 吉野を死出の 山にうつして」
と言う歌を詠んでいる。
しかし、それよりも凄まじい話が残されている。
紹益は、吉野を荼毘に付した後、その骨灰を壺の中に残らず納め、そしてその遺灰を毎日少しずつ酒盃の中に入れて、吉野を偲びながら悉く飲んでしまったと言う。
現在、京都の鷹が峰にある常照寺には、二人の墓がある。著に『にぎはひ草』が有る。
元禄4年(1691)11月12日死去。享年82歳であった。
「骨まで愛した」紹益の純愛は、後の語り草となったのは言うまでもない。男の面目、女の冥利に尽きるというものであろう。
捨て物の灰を再利用した卓見と、それを事業化させた器量、そして柔軟な文化人の華も持ち合わせ、当代一の才媛を大枚で請ける度胸、そして最期まで貫く至純のハートの持ち主。
これは男女の境を越えて、この世の人として、理想像がイキイキとしてここにある。
清々たる脱俗にも留まらず、紛々たる俗臭にも染まらず、易々として両岸の橋を行き来した軽やかさは、人間として見事と言う他はあるまい。時代を超え、これなら男女ともに惚れ込むに相違ないであろうと嘆息して、我が身の拙さを振り返った。
(灰屋紹益書付)