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2007年10月24日

●ウィーン わが夢の町

ウイーンわが夢の町.jpg

ある朝、NHKラジオから聴こえる朗読に、
しばし耳を傾けた。

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「みんな、聞いてくれ」
その声に、下がっていた歌手達が、いっせいにカラヤンの周囲に寄ってきた。
「この娘は、東洋の果ての、日本という国から一人でやってきた。
私は、日本へは何度も公演でいっているから、どんなに遠い所か、よく知っている。
寂しい思いをしているに違いない。
どうか、みんな、これから彼女の支えに成ってあげて欲しい」
足が震えた。
立っていられなかった。
私は、カラヤンの前で、膝をついてしまい、その場で号泣した。

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東洋人として初めてのウィーンオペラ座の楽員になったアンネット・一恵さん。
長年の人種差別のイジメに精も魂も尽き果てて、その日、舞台の中で皆の見せしめに遭った。
正に崩れんとする時、あの指揮者カラヤンは、初めて日本人の歌手を驚きの眼で見つけた。
そして、救いの手を差し伸べる。
それまで蔑視していた合唱団員は掌を返したように一恵さんへの見る目が変ったのだ。・・・・・・・・・


カラヤン.jpg
(カラヤンにサインしてもらったベートーベン第9のレコード)

私も16歳の時、カラヤンに会って、
話しが出来てサインまで貰った4,5年後の事件だったので、
一際、興味深くこの話を聞いたのだ。

一恵さんのそこに至るまでの凄まじい半生の足跡を越えて来た、
その生命力に感動した。

本の帯にこう記してある。

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「ひとは、これほどの目に遭っても、花を咲かすことができるのか」
極貧生活、
いじめ、
音大受験失敗、
人種差別・・・・・・

それでも夢を捨てず、
東洋人初のウィーン国立歌劇場団員歌手となって30年余。
その凄絶な半生を自ら明かす、
感動、勇気、驚愕の自伝。
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上海で幼少期を過ごし、戦中、大陸を放浪し、一家離散。
知人宅に預けられ、看護婦になって音楽の通信教育を受ける。
養女となって上京し、音大を受験するも失敗、正式な学校教育を受けられなかった。
31歳で日本脱出し、ウィーンにて生涯の師に逢い、それから運が開け、
オペラ座の団員、更に欧州の音楽会で歌い続けている。
そして、今、日本でも声楽指導に当たる。

しかし、その過程の貧乏、差別、イジメは筆舌に尽くし難かった。


中卒で、24歳で定時制高校をでて、
音大の受験に失敗した30歳を越えた無名の女性が、
オペラの大殿堂、本場ウィーン国立歌劇場に、
どうして入団出来たのか、
誰が、信じられるであろうか。

オーストリア人が歌舞伎役者になったと同じ事が、
どうして出来たのか。
想像を絶する困難を越える
彼女の逞しさ、願いの強さに驚かされるのだ。

それは、ただ「歌いたい!」という一念で、
誰もが挫けるであろう壁を突き抜けた。

一人の人間にこれだけ厳しい困難というものが下されるだろうか。
そして、女性の身でこれだけ劇的な回天の力を得れるであろうか。

「天は越えられない試練を降さない」という。
人には、隠れた奇跡の力というものがありうる。

そして、信じるところに、
必ず不思議の助けというものがあることを、
知るのだ。

アンネット・一恵さんの半生記を読むと、
誰もが自分の豊かさに気付かされる。
誰もが自分の生き方の生温さに気付かされる。そして、
誰もが自分の悩みや困難さを突破できる希望を見出すであろう。

この奇跡劇は、特殊な才能の持ち主が勝ち得たサクセスストーリーでなく、
自分の夢実現のために、自分を困難な場に身を置いていない
現在に気付くべきものなのだろう。

そして、「自分は何時でも生まれ変わることが出来る!」
と、いう確信が与えられるはずだ。

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