●共時性・シンクロの日々
SELLES-SUR-CHER (AOC) 「セル・シュール・シェール」
感謝デー初日、山田君のシェーブル(山羊チーズ)の販売開始日でもあった。
その日夕方、「チーズマーケット」の山本さんが久方ぶりに来店された。
私に食べてもらいたいと、BIETSさんの『セル・シュール・シェール』を持参された。
何と、シェーブルの極めつけと言われるこの『セル・・』を持って来られた偶然に驚いた。
山田君も山本さんも本当に何年かぶりで、「シェーブル」で同日に邂逅したのだった。
(余談:日本古代史に詳しい宮原氏によると、日本人の原型でもある「山の民」。
その山が付く名前が邂逅されたのは、偶然ではないという。山田、山本・・・・・
しかも、日本のルーツでもある中東、その中のイエメン→ヤーマン⇒ヤマの民に繋がっていった。
そして、牧畜を通して醗酵技術を伝承していった。今日の二人は、まさにチーズ。
南下してミャンマー⇔ヤンマー・・・邪馬台国ヤマ・・・・コク、大和ヤマト・・・・・・と繋がる。
それは、これからの話の序奏でもあった)
ちなみに、この『セル・・・』を解説すると、
ロワール河沿いの「セル・シュール・シェール」という町のシェーブル。
乳酸菌使用が多く、若いうちは酸味が強い。
それを和らげるのに、ポプラの灰と塩を混ぜてまわりに付着させる。
8世紀にサラセン人(アラブ人)がスペインからフランスに攻め込んできた際に、
共に山羊を大量に連れて来たが、フランス軍が優勢となり、サラセン人は撤退した。
山羊は置いていかれて、今こうしてシェーブルが盛んになったとか。
木炭の湿気が、カビの自然な繁殖をうながし、初期は爽やかな酸味を感じる。
熟成して水分が抜けると身が引き締まり、味もコクが増して酸味と甘みのバランスが良くなる。
実際、食するとその絶妙な風味に舌が唸る。
しかし、モランさんに作ってもらった「ti-tie」のさまざまなバージョンも、
これにかなり近い印象を持っていた。
そうして、帰宅して夕刊を見た。
すると、第一面に今日「『アイヌ民族は先住民族』衆参、全会一致で決議・・・・」
という見出しが飛び込んで来たのだ。
今日、まほろばの二階で「アイヌ・アート展」を開催した初日であった。
これも何というタイムリーな偶然であろうか。
それは、明治以降の長い間、アイヌの人々を苦しめて来た土人法等の、
苦悩の足かせ・首かせが、この日初めて解かれた記念すべき日だったのだ。
その待ちに待った選ばれた、たった一日に当たった不思議!!!
これは考えれば、不思議以外の何ものでもなかった。
そのシンクロに、二重にも三重にも驚いてしまった。
時の神さまは、何かを仕掛けていらっしゃるのだろうか。
そうして次の日、結城さんのお話会を迎えた。
するとその朝に、モンゴルから劉桂栄さんという社長さんが突然お越しになった。
何でも、以前まほろばで扱っていた「ゆうめん」というモンゴル特産の麺の輸入元でもあった。
しかし、彼女はポスシステムのIT関係の社長であった。
彼女の出身地は、内モンゴルの奈曼旗(ナマンキ)という地方都市であったが、
何とエリクサーに内蔵している麦飯石の産地で、セラミック加工工場も近くにあるという。
木曽路の鹿野社長に問うと、正にその通りで、ご両人意気投合してしまった。
ここにも、エリクサー繋がりがあったのか、と目に見えない糸を見た思いだ。
鹿野社長は17,18日札幌入りして、モンゴル政府書記長をまほろばにお連れするという。
ちなみに、この「ゆうめん」裸オーツ麦が使われて、アレルギー性が少なく、腰があり旨い。
1500mの高原で栽培されているため、農薬の必要性がなく、
有機とグリーンフード(緑色食品)の認定も取得している。
まほろばでも販売が再開される。
そして、二階のアイヌ・アート展を見たいと、彼女が上がった所、
折りしも、居ないはずの結城さんがいらしていた。
その時、偶然にもかかっていた音楽が、来月5日にまほろばで開催される
長根あきさんの「ムックリ」演奏で、そのバックに
ホーミーと馬頭琴が鳴り響いていた。
「わァ、懐かしい、これ馬頭琴じゃない?」と問われた。
そこで、すでにアイヌとモンゴルのコラボが実現していた。
劉さんと結城さんとは、初対面であったことは言うまでもない。
そこで、彼女が、
「アイヌ語をしゃべってみて!」とお願いした。
彼が何やら、
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」と語ると、
またまた
「わァ、モンゴル語と同じ!!!!!」
と、その語感、抑揚等々の同一性に驚かれたのだ。
ここでも又、意気投合された。
かつて、アイヌは、アムール川流域まで交易の輪を広げ、
明代にも蝦夷錦なども輸入していたほど、
大陸との国交も盛んだった。
それは、もっと以前に同じ血が、大陸において分岐されたのかもしれない。
そんな末裔達の再会劇を、
まほろばのこの場で見るとは、
これも何という偶然であろうか、シンクロであろうか。
まほろばが、あらゆる離れ離れになった物々、
別れ放たれたる事々を、
結ぶ役割があるなら、
これほどうれしいことはない。
それこそ「結(ゆい)」であり、
エリクサーの精神でもあるのだから・・・・・