●ルリユール/悲しみのアリア
日曜の「父の日」に、以前ソフテリアで働いていた堀内さんから絵本を戴いた。
別段、頂戴する理由などないはずだが、彼女を揺り動かしたその本のいきさつを聞き、
二重にも三重にも、驚いてしまった。
とにかく、一読して、その質の高さ、筆の確かさ、そしてこの作者に言うに言われぬ何かを、私は感じたのだろうか。
『ルリユールおじさん』というパリに住む昔ながらの本の装幀を生業としている
おじいさんと女の子の物語なのだ。
RELIEUR(製本)−DOREUR(金箔)と書かれた小さいな看板。
出版業と製本業の兼業が、長いこと法的に禁止されていた
フランスでこそ発達した製本・装幀の手仕事。
しかし、その60もの工程に通暁する職人は現在一桁になったという。
日本にはこの文化はなく、手工芸的アートとして見られるだけだ。
この世に一冊しかない「書物」を未来に向けて手渡す使命を持った
アルチザン(手職人)の強烈な矜持と情熱。
そこに共感し取材した、作者いせひでこさんの眼が投影されて、
その細密な工程と、手作りの温もりが直かに伝わる。
しかし、その女の子のガラスのように壊れそうな繊細なタッチに言い知れぬ陰を感じたのだ。
PCで検索すると、何故か作家の柳田邦男さんが出ていた。
お礼に堀内さんに電話をかけると、その絵本を手にしたいきさつを語ってくれた。
大学の図書館で柳田邦男さんの「気付きの力」を読んでいると、
奥様が書かれた本が、ヨーロッパで大ベストセラーになったという。
これは前代未聞のことだった。
その奥さんこそ「いせひでこ」さんで、その本こそ『ルリュールおじさん』だったのだ、と。
そこで、私は堀内さんに問うたのだ。
「では、あの自殺した息子さんを産んだお母さん?」
「そうなんです・・・・・・・・・」
私は、驚愕した。
これも以前、経理の斉藤さんからもらった柳田さんの
『犠牲サクリファイス わが息子・脳死の十一日』を読んで、
次男・洋二郎さんの自死の試みから死に至るまでを看取った記録の中で、
子を亡くした父親の悲しみに、心振るわせた事を思い出していたからだ。
その中で、バッハの「マタイ受難曲」の美しいアリアが出てくる。
私は、高校生の時、同じ部分の『憐れみ給え、我が神よ』によく涙したものだった。
憐れみ給え、我が神よ、
我が涙ゆえに。
ご覧あれ、心も目も
御前にて激しく泣くを。
憐れみ給え、
憐れみ給え!
愛弟子ペテロが死の恐怖に、師イエスを裏切ったその愚かさを悔い、自ら号泣する場面。
それを、メンゲルベルク指揮、アムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団の
戦時下での実況盤(1939年 )を何度聴き返した事か。
そのライブ盤では聴衆のすすり泣きが聞こえる。
そして、柳田さんは、同じこの盤を聴いて綴ったのだ。
また当時私は、武満氏の室内楽の「サクリファイス」も聴いていた。
それが旧ソ連の映画監督タルコフスキーの「サクリファイス」に繋がるのだ。
彼は世界救済を夢見、
『私達が一日一日を平穏に暮らしていられるのは、
この広い空の下のどこかで名も知れぬ人間が密かに自己犠牲を捧げているからだ。』 と言う。
その映画の前後に、マタイのこの嘆きのアリアが流れる。
今になって、柳田さんの遣る瀬無き慟哭が、家族の悲しみと連動する。
それが、この絵本の通奏低音となって響いている。
そして、柳田さんは次のように記す。
・・・・・・・二つの腎臓の摘出がすんで,洋二郎の遺体をわが家に連れて帰ったのは,午後11時過ぎだった.居間に安置して,グラスに水を注いで供えたとき,賢一郎がテレビのスイッチを入れた.偶然にも,NHKの衛星放送でタルコフスキーの映画「サクリファイズ」が放映されていたのに気づいたのだった. なんということだろう,あの「マタイ受難曲」のアリア「憐れみたまえ,わが神よ」のむせび泣くような旋律が部屋いっぱいに流れた.私は立ちすくんだ.このとき私は,神が洋二郎に憐れみをかけ給うてほしいと心底から願うようになった.どういう神なのか考えることもせずに.・・・・・・
そのシンクロは亡き息子さんが引き寄せたとしか思えない。
そして、それは、頑なまでに神に祈ることをしなかった洋二郎さんが、
「憐れみたまえ、わが神よ」と初めて祈り得た時が時空を越えて来たのだ。
そして、私が傾倒した武満氏も、作曲する前には、儀式として「マタイ」を聴き、禊としたという。
亡くなる前にFMでこの「マタイ」が鳴った。
間も無く、静かに息を引取った。
この絵本は、単なる絵本ではない。
命の再生を願う祈りが、アリアのように朗誦しているのだ。
それを堀内さんは、表紙の枝のブルーに底知れぬ悲しみの色を感じたという。
全てを失って、最後に祈らざるを得ないその存在とは。
我々は、祈るというより、全身全霊で祈られている存在を知らねばならないのかもしれない。
RELIEUR/ルリユール
それは「もう一度つなげる」
という意味もあった。
修復され、丈夫に装丁されるたびに
本は、また新しい息が吹き込まれ、
いのちを輝かせながら、
次の世代に手渡されて
生き続ける。
この肉体は、今の生のサクリファイスとなって、
また新しい肉体に修復され、装幀され
次の新しい生を行き切るのかもしれない。
「偉大なるルリユール」によって、
私は、新しい生を
今日も迎える。
コメント
はじめまして、まほろばさんを検索してやってきました。ブログを開くと、大好きな伊勢英子さんの絵本が…。私も持っています。最新の“にいさん”もいいですよ。
ただ、柳田さんの息子さんのお母さんではありません。
息子さんを亡くされてから、伊勢さんとは出逢われたと思います。
柳田さんを講演会会場から空港までお送りしたことがあります。私としては、伊勢さんと柳田さんは、とてもすてきな大人の関わりを持たれているんだなとその時の柳田さんのお話の中から感じました。
すいません、おせっかいなコメントを入れてしまいました。
Posted by: shoopy | 2008年06月19日 13:56
そうでしたか。
知りませんでした。鵜呑みにしてしまいました。しかし、柳田さんが選ばれた伴侶、きっと同じようなトーンが底に流れていたのでしょう。きっと、そのような悲しみを共有できる方に違いありません。
見るに、北海道に13歳まで住まわれていたとか。何時かお会いしたいですね。
よろしくご指導くださいませ。
Posted by: まほろば主人 | 2008年06月19日 17:35
繰り返される命の再生!!!私も本の再生のことだけを言ってるんじゃない、もっともっと何か大きな…と 感じていました。後で結婚されていたんですね、家内、息子とあったので文面から勝手にそうしてしまいました。すみません ありがとうございました。感動がより、深まりました
Posted by: Y.H | 2008年06月19日 21:37