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2008年12月08日

●小林秀雄のCDを聴く

小林秀雄 CD1.jpg

小林秀雄のCDを聴く。
その中の一つ「くすり」に関する語りがあった。
何でも製薬会社の知人から聞いた話しだという。

宋の時代だったか、
下痢にも便秘にも同じ薬草が使われていたというのだ。
それが人参だった。
今で言う「朝鮮人参」か何かの類いであろう。

それは一つの人参だけで,
止めるのも流すのも両方のエレメント(成分)があったということだ。
だが、近代の薬学は、これを二つに分けた。
つまり下痢止め薬と下剤を作った訳だ。
これは、あるいは儲かるかもしれないとの、
そんな魂胆があったのかもしれない。

だが、果たして、下痢は止めるのがいいのか・・・
時には、流した方がいい場合があるに違いない。
そんな選択は誰がしているのか?
実は、それは、どちらにも効用の無いもの、
あるいは逆の作用の薬効がしているのかもしれない。

これが、肉体の隠れた智恵であり、
薬草の驚くベき効用でもあるのだ。

現代的な解釈を加えると日和見菌のようなものだろうか。
どちらにも属さないが、時にはどちらにもなる。
あるいは無用の用で、何のエレメントを持たない没個性が、
実は大変な効力を発揮する。

こういうことは日常茶飯事に起こっている事だが、
私たち愚鈍な眼(まなこ)には、情けないがそうは映らない。
目立つものだけに、目が行く。
しかし、それを際立たせている背景が目に映らない。

この千年の指摘は、何も薬草の分野に限ったことではない。
あらゆる分野が、その疲弊に陥っている。
細分化された科学や医学、そして人間の成れの果てと言おうか、
物事を分けて決して幸せにならなかったという
壮大な実験を人類史はしたのだが、我々はその愚をまだ解ってはいない。

小林秀雄 CD2.jpg

その他の演題「勾玉」でも言及していたが、
ああいった翡翠の美と言うものは、縄文のある時期を境になくなってしまう。
ヴァイオリンでも、ストラディバリウスを頂点に、後は下るばかりである。
それは、どうにもならない事だと、小林は述懐する。

薬草に見た、古人の自然物への洞察力は、再び戻り得ないだろう。
老子の言う、為す事によって、いよいよ妄眼が昧くなるばかりだ。

ならば、我々は何も為す事はないではないか。
せめて、美たる物のそのものを、飽かず眺めよ、と。


久しぶりに小林秀雄(呼び捨てにして申し訳なかったが)の肉声を聴いた。
高校時代、友と札幌の市民会館で初めて講演を聴いた青春が甦る。
生意気盛りの青年を前に、小林サンは酒を引っ掛けて、
「これは、義理で頼まれて、仕方なく話しをする・・・・」なんて言って、
実は用意周到に、原稿を練り、声を出し、枕まで完璧を期した完全主義者だった。
そして、丹念に志ん生の落語を習った、その話し振りの間には驚かされる。

古今亭志ん生.jpg

何度聞き返しても飽きさせない、不思議な魅力を湛えていることだけは確かだ。
ある意味、青年期にかような知の巨人と共に時代を過ごせた事は幸せだったように思う。
難解な文章に、解らないなりに取り組む時期も必要なのだろう。
「小林秀雄」の根底に流れる審美眼に陶冶されて、
未熟なりに、今の自己が形成されていった事に感謝したい。

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