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2009年02月13日

●爆笑問題と考える

爆問 音 1.jpg

これも、NHKTV続きで申し訳ないが、
話題の「爆笑問題のニッポンの教養」を見た。
今回、音文化学の藤枝守さんが出演、
タイトルが『あなたの知らないメロデイー』だった。
途中から見たのだが、結論はこうだ。

19世紀半ば、楽器の王者ピアノが出現し、
世界に普及するに、音律を統一する必要があった。
そこで、考案されたのが平均律だった。
それは、いわばグローバリゼーションの道具でもあり、
大量生産・大量消費の走りだったという。
実は、それから世界的に音楽の崩壊が始まったと言う。

各国、各時代には、それぞれの音階というものがあり、
それは特有の風土とか、気象とか、歴史とかが混ざり合って、
当地の人々にとって最も相応しい音調が自然と形成されて来た。

沖縄には沖縄の、バリにはバリの、イスラムにはイスラムの、
それぞれの階調があって、何百年何千年間、営々として
民衆の心を紡ぎ、声を繋いで行った。

そこで、爆笑問題の田中君が、どうしても音が外れることに、先生は、
「それは、素晴らしいことだ」と答えられ、彼は気を良くしていた。
いわゆる絶対音感などは、土台おかしいというのだ。

爆問 音 2.jpg

すると、傍で見ていた家内が、
「そうでしょう、そうだと思った。
私、どんな音楽を聴いても馴染めない、良いとは思わなかった。
私の声を音痴というけど、良かったのよ」
何か音楽観の根底を揺るがす説得力があって、後を継げなかった。

彼女の祖父は、岡山でご詠歌の大先生だった。
幼い頃から、四国八十八ヶ所巡礼に付き物のこの讃歌が
耳に馴染み、染み付いていたのだ。
だから、根底の音調が確立されていて、
学校で習う七音階の微妙なブレが相容れなかったのだろう。

実際、妻の唄はちょっと音程がズレて、合わすとつい引き込まれるのだ。
一般に、これを音痴と言うのだが、
声に何か古い音律の翳りがあって、
通常の唄う行為と少し違う。
今回の件で、これは見識を改めねばとさえ感じた。

例えば、日本の民謡や唱歌を、
イタリアのベルカントやドイツリートの唱法で唄われることが、
しばしばあるが、言い方が悪いが、全く感動が伝わらない。
木に竹を接ぐが如きではなかろうかと思うのだが。

日本の音程は、スリとかユラシという謡いぶりがあって、
その一音を中心に前後上下に微妙にぶれるのだ。
これが、味わいになり、情緒になる。

私的には、端唄や都々逸などが、大好きで、
あの粋で艶のある遊び感覚は、江戸情緒そのものだ。

またクラッシックも好みで止みがたいものがあるが、
しかし、たかがヨーロッパの2〜300年の音楽を
かくまで絶対権威の如く礼賛して、何故ここまで来てしまったか。
放送局は、日本の伝統音楽や各国の民族音楽を、
もっと流さないのかと思うのだが、いかがであろうか。

爆問 音 3.jpg

これは、一つ音楽に限ったことではない。
あらゆる事々に対してのグローバル化の矛盾が、
今悲鳴を上げて、政治経済・文化教育の面で突出して来た。

日本が奈良朝以降、漢学を取り入れて
換骨奪胎をやり遂げ、東洋文化を我物にした。
明治以降、強烈な西洋コンプレックスをバネに、
欧風文化に追いつけ追い越せをやってのけ、
その結果どうであろうか。

良き事も多かろう。
しかし、失った事の如何に多きかは論を待たない。
その大きな一つが、日本人の情緒性だろう。
そして、その端的な現われが、音への感受性に他ならない。

もう一度、生身の体から出てくる声から、
何事かを始めるべきでなかろうか。

最近、島唄など、沖縄の古い歌唱法を大切に伝えて、
オリジナル曲を作り、歌う若人が出ていることは喜ばしい一例だ。
そのオリジナリティーを、世界が待っているような気がする。

自分が自分らしくあることが、
世界と仲良く出来る唯一秘訣であるようにさえ思えるのだ。

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