●えぇっ、南君!!
(右の粋な着こなしの男性こそ南君)
1月31日、北海道新聞の生活欄を見て、
「おっぉっ!」
「えぇ!南君?まさか?」
「でも、似てるよな?」
「名前は書いてないし・・・・人違いでしょ」
と、こんな具合に事務所は、盛り上がったらしい。
昨年一年間、「まほろば自然農園」で研修生として働いた南直人君。
今年4月から東川で、稲作農家としての研鑽と就農に人生をかける。
そんな南君が、和服で登場!
こんな余裕があるのか?と思われたが、
果たして、その南君その人だったのだ。
それは、ありうるかもしれない。
彼は、IT企業関係から足を洗い、農業を志した。
傍ら、お茶、気功、雅楽・・・等々の日本の伝統文化に傾倒していった。
彼の内面にある気付きと言おうか、何かが働き始めたのだろう。
これは、良いことかもしれない。
(細川元首相作、「黒楽」「白楽」の見事な趣き)
今月の「和楽」に、『細川家の文武一如』といテーマで、
元首相、細川護煕氏は、こう答えられている。
問い 「文化、つまり教養をもつことの効用とは何でしょう」
細川 「大局が見える、ということではないでしょうか。
文化全般を学ぶことによって、人は一歩引いた、
自分自身を相対化する視点を得ることができます。・・・・・・・」
和歌、連歌、書、茶の湯、能・・・とあらゆる日本文化を身に付け、
しかも足利、信長、秀吉、家康など六代の政権に仕えた遠祖に当たる
細川幽斎の文武一如にしてこそ、見える境地は、大局観であった。
この武を、それぞれの職種に当て嵌めても良い。
その分野の何たるかを見極めるには、文という教養が欠かせない、というのだ。
そう指摘されると、何もない自分が露呈されて恥ずかしい。
芸に流れず、職に溺れず、
文武両道の聖凡一体なる生き方と言おうか、処し方と言おうか、
二つながら、眼(まなこ)を開ける必要がある。
現代教育が、この教養という点においては、如何に離れたものかは、
あえて指摘するまでもないだろう。
真の学とは何か、真の芸とは何か。
久しく問われる所だ。
若い頃から、何物も身に付けていないことを悔やむ。
茶の湯一碗にしても、大天地の声を聞くという。
ここ還暦近くになって、初めて侘び寂びに、
心惹かれ始めた遅まきの私がいる。
出来うれば、分らなくても幼き頃より、
日本の伝統文化の一端に触れる機会を与えられることを・・・・
その物事に触れる記憶が、人生を観る眼に変るであろう事、と信じる。