●丸井さん
「丸井さんが潰れた!!」
この報道は、全道を駆け巡った、いや全国に。
何時だったか、弁護士のお客様が、
「お店で、さん付けは『丸井さん』と『まほろばさん』だけだなぁー」と、
大笑いされたことがあった。
そんな古くから、道民に親しい丸井今井さんが民事再生法にかかり、
無くなるのか否か、と皆不安になりつつ、
何か釈然としないものが、心に残ったに違いない。
私の亡くなったおばあさんは、大の丸井さんファンだったし、
丸井さんのお嬢さんが、私の姉の同級生だったこともあって、
田舎者の私も幼いながら、親しいデパート、札幌のデパート、
という感じを抱いていた。
その原因は明らかであった。
売上げが低迷し、大きくはデパート自体の存在意義も問われるものだった。
しかし、これは明らかに本州からのデパート進出による
倒産であることは論を待たない。
地元から生まれた商店が、何故外からの圧力に屈するのか。
はじめから、購買のキャパは決まっていたはずだ。
市の活性とはいえ、その受け入れは、
何れどちらかが出て行かねばならないことは明らかだった。
それが、何処でもない、地元の企業が出て行くことに
何とも遣る瀬無いものがある。
「軒端を貸して、母屋を取られた」感が否めない。
しかし、それに私達道民も少なからず加担していたことになる。
活性化の美名の下に、大いに受け入れを歓んだ手前もある。
しかし、最後に苦汁を舐めるのは当の地元民で、
利は、向こうに持って行かれることに気付かなかったのか。
益々、地力は疲弊するばかりだ。
経済向上を旨として発展すること、
それが、健全で良い事か否かは分らない。
しかし、私には発展にも慎みがあってしかるべきではないかと考える。
国内一円を網羅する、あるいは海外に進出する・・・等々の勢いは、
短期的には景気が良いように見えるが果たしてどうであろうか。
あのトヨタ神話が崩れつつある。
安い原料や雇用目的で、海外に渡る事が現地の人々にとって
長期的に裨益をもたらすかは、充分な熟慮が要る。
清算淘汰は世の常であり、自然の習いでもある。
日本史や世界史も俯瞰すれば、
この弱肉強食的な侵略の歴史でもある。
故に、何時まで経っても、平和の欠片さえ何処の国にも訪れない。
小さく見れば、今札幌の小都市で起こっている事件。
言ってみれば、商業戦争である。
もっと酷に見れば、侵略戦争でもある。
色々の見方があり、それぞれに出店し、勤めている人達が居るであろう。
しかしながら、目先の利益が、回り回って自分達の首を絞めることは、
しばしばあることだ。
可能な限り、地場のことは地場でまかなう、補う、助け合う、
と言ったごく当たり前の姿勢が必要でなかろうか。
購買・消費といった一見華やかな発散の場が、
まかり間違えば、惨憺たる修羅場と化す。
実際内部に立ち入ってみれば、それは地獄絵図ではなかろうか。
倒産に纏わる関連業者の悲劇を、数多く見て来たからだ。
あの波乱万丈の戦国時代を生き延びた老子が、最後に口についた
「小国寡民」は、ただ単なる観念の言葉ではなかった。
毎日毎日、行く所去る所、夥しい戦火と泣き止まぬ声々、
その塗炭の苦しみの庶民の行く当て所ないさまを見て出た
呻吟の一句なのだ。
「小さくあるべし、少なくあるべし」との意味合いは、
実は広大無辺の彼方に通じる巨大な思想なのだ。
自分も零細企業の明日をも知れぬ浮葉舟を舵取る
一経済人であるかもしれない。
あえて、大企業の経済人に物申すとは不遜千万かもしれない。
しかし、この国の窮地は、この物事の右か左かの判断如何にある、
と言っても過言ではないと信じる。
ほどほどの所で、手を打つ。
その美徳が、日本本来の謙譲であり、
互譲の精神ではなかったか。
ともあれ、我々は猛省の時期に直面している。