●連載つれづれ
森下国際「自然医学」誌に、
「北の空から」と題して文章が連載されている。
先の11月号は、「井戸茶碗顛末記」。
松平不昧公から益田鈍翁に手渡った名器「老松」に纏わる感慨を述べた。
最近、この商売を始めてから25年間、全く手にしていなかった古典を、
また少しづつ読み始めている。
社会的体験が加わって、字面だけを滑っていた若い頃と違って、
作者も同年代となって、同じような目線で物事を観ている不思議な体験が続く。
それと、座談会「患者や悩める人を『良薬』を目指して」(二回)が掲載される。
句会の後の懇談会で、気楽に話していた事が、記事になるとは。
俳句の嗜(たしな)みがないのに、俳句論を述べるなど、
不遜にして誠に恥ずかしい、穴があったら入りたい次第。
「山茶花納涼句会」の俳句も出されて、拙句を抹殺したい所。
12月号は、「古きを温(たず)ねて 近きに訊(き)く」と題して。
「寒地稲作の父」中山久蔵氏とクラーク博士の逸話を交えての記事。
故郷の近く、輪厚にある中山久蔵家は元まほろば自然農園の近くでもある。
こんな辺鄙な場所で、歴史的事件が起きていた。
小学校3,4年生の頃、社会の時間で、郷土史を習い、
H・ケプロン、W・クラーク、黒田清隆、間宮林蔵などなどの人物画を画き、
身近な未知の偉人に慣れ親しんだことが、郷土愛に繋がったのかもしれない。
活き活きした歴史観は、やはり自国や故郷を知ること無しには生まれないだろう。
この歳になって、素養の無い文学や歴史の話をする自体、不思議な感がする。
今になって、もっと本を読むべきだったなー、と後悔すること頻り。
先日目を通した、細川元首相の「跡無き工夫 -削ぎ落とした生き方−」で、
新刊書を読まず、古典を何度も深読みすることを、
自分にも課し、人にも勧めていることに頷いた。
「人生は短く、古典は長し」。