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2009年12月21日

●荒川豊蔵翁の文

ある日、寝転んで「日本のやきもの」を読んでいた。
その「美濃」篇で、彼の荒川豊蔵翁の文章に出くわした。
久方ぶりに、いい文章だな・・・と起き上がったしまった。
どうして陶工は、こうも名文家が居るものか、と唸った。

益子焼の濱田庄司氏の文の彫琢に迫れる作家はもう見当たらないだろう。
両氏とも土を練り、轆轤をひき、窯を焚くこと自体、すでに練成していて、
机上の空想を頭で練っているのとは、自ずから醸す味わいが違う。
同じ言葉を使っても、そこはかとなく滲む行間と言おうか、間と言おうか、
まるで、志野の器を眺めるが如く、飽きない。

私の若い頃、荒川氏は文化勲章授与、人間国宝として活躍されていた。
古窯跡で志野焼陶片を発掘し、安土桃山時代の志野焼が
美濃で製作された事を実証した逸話は有名だ。
まぁ、くどくどと駄文を並べるより、氏の何気ない文章に、
深い奥行きや息遣いを感じるのは私だけだろうか。

荒川豊蔵 1.jpg

「志野・織部の故里」
             荒川 豊蔵

私は多治見で生まれ、多治見で育った。
若いうちの何年間かはこの故郷を離れて遍歴の日を過ごしたが、
制作の本拠である大萱にこもってからも、
故郷の家は家族とともに住む生活の本拠であった。
"美濃をたずねて“の書き出しを多治見から始めたのは別に意味はない。
ただぶらりと家を出て、眼にふれたあたりから案内をしてみたいと思ったまでである。
やきもの世界で桃山、といえばまず志野が浮かぶ。
志野といえば美濃が浮かぶ。志野はあまりにも有名になったようだ。
多治見から高田・小名田を経て久々利の大萱・大平へ、さらに五斗蒔峠を通って久尻へ。
通いなれ、歩きなれた道をたどりながら、気ままな感じや今日の姿を記してみたいと思う。

多治見は四方を低い山々で囲まれている盆地である。
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