●一期一会
(ご主人を囲んで、みなさんとご一緒に)
昨日、旭丘の「奥井理」ギャラリーで、
「米倉トシコさんをしのぶ会」が開かれた。
村本美和さんからのお知らせで駆けつけることが出来た。
ささやかな催しだったが、お友達が寄り添って、
思い出コーナーや治療コーナー、手造りコーナーを設置して、
精一杯言葉を贈り、故人を偲んだ。
温かい仲間に囲まれ、トシコさんも幸せだったに違いない。
エリクサーを通してのたった一回の邂逅だったけど、
十分生涯通してのお付き合いだったような気にさせる存在だった。
保母さんだった優しい眼差しで全てを観られていたのだろう。
病も死も、十全として受け入れ、従容として去って逝った。
そんなさわやかな残り香を遺して、周りを幸福にさせて・・・
天国の米倉トシコさんへ
「一期一会」
この言葉は、あたかも米倉さんと私に用意されたもののように思った。
元々、仏教語であろうが、度々「茶の湯」の席でも使われる。
心をこめたお手前で、賓客をおもてなしする。
その出会いは今生一度であるかもしれない。
そんな一瞬一瞬の出会いが、掛け替えの無い人生を豊かに紡ぐ縁生でもある。
もし、前世というものがあれば、それは母かもしれない、子かもしれない、
または悲恋のうちに離れ離れになった恋人同士かもしれない。
「袖振り合うも、他生の縁」とは、まさにそうなのだ。
この地球上の人類何十億の中で、この短い人生、狭い日本で出会えるとは、
本当に会い難くして会い難き縁といわねばならない。
実は、私が米倉さんに直接会ったのは、只の一回だけだったのだ。
それは、朝里で開かれた寺山心一翁先生の一泊二日のセミナーであった。
終始、明るく素敵な笑顔の米倉さんとご一緒して、食事も向い同士、隣には寺山先生。
語り尽くせぬ会談は、私の胸に深く刻み付けられて忘れることが出来ない。
しかし、その後何ヶ月かして、訃報を聞いた時、
信じられない驚きと共に、次のことが頭を掠めた。
「死生天にあり、寿殃窮通(じゅおうきゅうつう)は命(めい)なり」と。
つまり、命の長い短いは人のあずかり知らぬところで、
みな天の定めたものであり、命(めい)なのだ。
健康でいようが、病気であろうが、幸いでも悲しくても、
死というものはその人の最も相応しい時に訪れて来るものなのだ、と。
そう知れば、最早人生は嘆くことも、苦しむこともない。
ただあるがままに流れ、赴(おもむ)くままに行くだけなのだ。
それは、川の流れのようにイノチが、あの世からこの世へ、
この世からあの世へと行き着くだけなのだ。
米倉さんは、天の命ずるまま行きつ戻りつ、天に召された。
これは個人的なことで恐縮なのだが、
米倉さんが「エリクサー」を「自然医学」の
森下敬一会長に紹介戴いたことで全国に広がり、
そして、「まほろば」の生き方の声を毎月、冊子にお伝えすることで、
少しでも北海道の存在を知らしめることが出来るようになった。
そのタイトルも「北の空から」。
きっと米倉さんも北海道の空から、私の背を押してくれて、
神の声を聞かせてくれているに違いないと信じている。
あの底抜けに朗らかな笑顔は、空を突き抜けて、
天空で響き合う女神のようでもあるのだから。
………いつでも、私達は米倉さんと一緒なんです……………
コメント
早々にブログにアップしていただいてありがとうございました
お土産までいただき感謝しております
お蔭様でたくさんの来場者を迎え、
有志の演奏も熱く、
天国の米倉さんもとても喜んでいると思います
Posted by: KIKI・WAKO | 2010年05月17日 20:43