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2010年09月10日

●THD 近藤会長ご夫妻 

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久し振りに京都のTHDの近藤会長ご夫妻が、まほろばにお越しになった。
相変わらず元気ハツラツ、何時までもお若い。
しかし、何がお若いかというと、発想が飛んでいるというか振るっている。
今度、「半透明人間」を沖縄に探しに行かれると言う。

これを聞いて、いささかビックリ、口を開けかけてしまった。
実際、写真を見せて戴くも俄かに信じられない。
「あてはあるんですか?」と聞くと「いや、まったくない」と平然として答えられる。
ここまで来ると、実にたいしたもんだなー、と感心することしきり。

バンクシアという会社を興し、フィットネスや農業、発酵や出版事業を行っている。
ことに「ホ・オポノポノ」の小冊子が14万部の大ヒットで、次々と新作が出ている。
今、とある本を製作中で、30万部を狙っているとか。
ちょっと種を明かすと、失敗は成功の元と捉えられる柔軟な心かな。

これは、納得。
第一、自分の人生は失敗だらけで、今はまあ、いいか、とあきらめられたから。
この本で、勇気付けられる方の多くありますことを。
とにかく、近藤会長は頭が柔軟で、驚くほど真新しい情報がどんどん入って来る。
宇宙構造や、世界の行方、物事の捉え方など、実に本質的な推察をされる。

これまでのさまざまな事々を話して、話題が尽きず。
お茶や大石良慶師のことから、近藤会長の京都のご祖先のことを語ってくださった。
何と、それは、清水寺の「舌切茶屋」の由来に関わること。
明治維新の志士、その名も「近藤正慎」その人であった。

事実、お父さんの名が近藤正次。
四代前くらいであろうか。
ご自分も知らない間に、その縁起がサイトに多く掲載されいてご本人もびっくり!
その一つをご紹介します。

「舌切茶屋 縁起」

「安政の大獄」の犠牲者は 死罪(切腹・獄門含む)が8名、獄死したものが6名。
捕縛前に死亡が、梁川(やながわ)星巌と月照さんの2名。
あとは数知れずですが 中には捕縛されても「お構いなし」になったものもいます。
記録に残らない逮捕者もたくさんいたことでしょう。

死罪は水戸藩士が最も多く4名。 
家老の安島帯刀は、斉昭の蟄居後、国政のため奔走し、
茅根(ちのね)伊予之介と共に、評定所に呼び出され、
評定の結果、2度も無罪になりながら、井伊直弼の独断で
帯刀は「切腹」、伊予之介には「死罪」の申し渡しでした。

水戸藩の京都留守居だった鵜飼吉左衛門も「死罪」。
勅許を受け取って、息子に運ばせたからですで、
運んだ息子・鵜飼幸吉は「獄門」 32才でした。
手紙運んで 死罪・獄門はないでしょ・・と思いますよ ねぇ?

飯泉喜内は「旗本家臣」となっていますが、娘むこが旗本・曽我氏の抱え医師。
本人は、公家・三条家にも仕え、江戸ー京都間を往復して連絡係をしていたようです。
頼(らい)三樹三郎は、「日本外史」を書いた頼山陽の三男です。
京都浪人で 一橋派でした。

そして、福井藩士で、春嶽の側近だった橋本左内。
ペリー密航事件の吉田松陰など、まあ「遠島」ぐらいが妥当な人たちも全て
井伊直弼の独断制裁で「死罪」となってしまうのですね。
そして、牢舎の中で拷問を受け、獄死したものたち6名。

最初の捕縛者・梅田雲浜はじめ、月照の弟・信海。
お先手組の与力で幕臣だった中井数馬。
公卿・西園寺家の家臣 藤井但馬守。
水戸から帰藩した薩摩藩士・日下部伊三治。
この人の娘むこになるのが、有村俊斉です。
後の海江田信義で 弟・次左衛門は
「桜田門」でみごと、この時の恨みをはらしていますね。

そして、清水寺・成就院の持侍・近藤正慎。
この人は、月照を逃がした後、捕縛され、
激しい拷問を受けますが、喋らずにすむようにと、自ら舌を噛み切り、 
壁に頭を打ち付けて自害するという壮絶な最期をとげました。

後に、清水寺の「忠僕茶屋」の隣に、この人の遺徳を讃え、 
妻きぬが、寺の好意で茶店を出す事を許されたのが、
今の「舌切り茶屋」です。
すずめのお宿とは 関係なかったのね・・・・

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近藤社長の母方も、お満基の方と呼ばれる葉隠れの末裔、
長生きしては迷惑をかけるので自害したという。
死を見ること、帰するが如く、生に潔い祖先の血が流れているのだろう。

「PPK/ピンピンコロリ運動」のピンピンと生きてコロリと死のうとの提唱は、
決して軽はずみなことでなく、その根は深い。
浮世の押し寄せる波をサラリとかわして、その流れに乗るサーファーのように、
軽々とこの世を飛び乗って、あの世に案内する不思議な存在、
近藤洋一氏は由緒正しい現存する宇宙人だったのだ。


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