●「致知」に載る
憂国警世の月刊誌「致知(ちち)」2月号の
「致知随想」の欄に、私の一文が掲載された。
文というより、記者の方が、東京からわざわざ来店されて、
インタビューして纏められたもの。
「『小国寡民』に生きる」と題して、
普段書いたり、語っていることで、目新しいことはない。
ただ、自分の書き下ろしでないので、
文調や運びにいささか異なる印象ある点はお許し願いたい。
しかし、有り難いことで、
まほろばの生き方が全国の人々に知られること、
というより「小国寡民」という思想が伝わる事が喜ばしい。
拡大路線を走る有名企業の愛読者も多いと聞く。
それより、「致知」と聞くと、四書五経を学んだ若き日が懐かしく思う。
これは孔子の弟子、曾子の「大学」の中に記されている
「明明徳」「親民」「止於至善」の三綱領と、
「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八条目の
その「致知」から由来している。
つまり、世界を治めるには、自分を修めることから始まる、というものだ。
ところが後代、この「格物」が先か、「致知」が先か、という歴史的一大論争が起こった。
南宋の朱子と明の王陽明の対立で、大まかに言えば、
物(理)を格(至)すか、知を致すか、どちらが先かというものだった。
(朱熹)
(王守仁)
詳しい内容は、かえってチンプンカンプンになるので省略するが、
私の師は、「格物」論であった。
知るということは物や事に当たらねば理解出来ない。
学問や知識では知ることを致す、極めることは出来ないだろう。
最初から知が至れるのは、聖人君子で、これを生学生知という。
後追いで、散々苦労して知るのは私の如き凡人で、これを困学困知という。
しかし今思うに、どちらが先と言うより、どちらも同じでないか。
行なうことで知り、学ぶことで知る、心身は同じであろう。
朱子学や陽明学の詳しいことは知らないが、
学問という形が残ると、自分を置き去りにして、
朱子だ、陽明だ、と解説や論争が始まる。
それは、どっちでもいいのだ、己が確りしていれば。
「致知」の題名に少なからず、不満を抱く学士もいるであろうが、
時代は、そんな古色蒼然たる論議を望みはしない。
「致知」社の今の日本を憂い、どう立て直すか、
という熱き心の同志が、今行動を起こすことの方が、
天下の大事であろう。
一月の売り出しに、随想をたよりに載せたいと思います。