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2011年01月28日

●幸せ

幸 2.jpg

今朝、社員ミーティングで、佐々木君が、
「幸せの字は、+−=−+になります。そして、
幸は上下を逆さにしても、左右反転しても、裏表ひっくり返しても同じです。
これが、幸せです」
と語った。

なるほど、幸せはどこから見ても幸せだ。
足しても引いても変わらず、上からも下からも、左右も、裏表もどちらから見ても変わらない。
人は、少しでも今以上を望む。もう少しお金があったら、もうちょと美人だったら・・・・・・・
しかし、幸せは、そのままが幸せ、そのままで幸せ。

それ以上も、それ以下もない、自分の今そのもので、最高の幸せなのだ!!
つまり、幸せはその状態でなく、それを感じるその心を言っていたのだ。
ところが、その語源は甚だそうではないのが興味深い。
しかし、そのものであった事に、さらに興味を惹くのだ。

しあわせは、「しあわせる(為る+合わせる)」の名詞形として室町時代に生まれた語。
本来は「めぐり合わせ」の意味で、「しあわせが良い(めぐり合わせが良い)」、
「しあわせが悪い(めぐり合わせが悪い)」と、評価語を伴なって用いられた。
江戸時代以降、「しあわせ」のみで「幸運な事態」を表わすようになった。

更に、事態よりも気持ちの面が移って「幸福」の意味になり、
「幸」の字が当てられて「幸せ」と表記するようになった。

漢字の「幸」は手枷(かせ)を描いたもので、「手枷」や「刑罰」を意味した。
やがて、斬首刑になるより足枷をかけられるだけなのは幸いだ、
手枷をはめられる(刑罰にかかる)危険から免れたことを意味するようになり、
思いもよらぬ運に恵まれたことから、
幸運・幸せの意味へと広がっていった。

幸 1.jpg

極端にいえば、極刑の覚悟から無期懲役となって命拾いをしたと言うものである。
手枷、足枷、さらに首から下が見えぬ担板漢の刑があった。
そんな刑罰から免れる安堵感は、世間のいろいろな縛りや、人生の囚われから
逃れた時の、ほっとした心の浮き立つような軽さを言うのだろう。

実は、幸福は明治時代に当て嵌められた字で、元々使われてなく、
現代的な意味合いもなかった。
時代と共に、字の意味が変遷してゆく。
それにしても、字源はもっと現実的で生々しい。

しかし、実感のある重い言葉でもある。
いわば、この世間は、手枷足枷の無自由な世界ではないか。
何事も思うに任せず、物という手枷に囚われ、欲という足枷に縛られているではないか。
だが、生きているだけ、それだけで幸いと思えないだろうか。

手足を括られても、命が絶たれるより、マシではないか、幸いでないか。
そんな消息を伝える古代の人々の思いは切なくも、真をうがっている。
幸いが、手枷であってこそ、真実を物語っている。
ある意味、これほど豊かな時代では、幸せは軽く浅い。

今の世も、何時の世でも、ちょっとした物事に幸せを感じられることこそ人生だったのでは。
生きるとは、難しいことではなかった。
ささやかなここにこそ、天国の光がさし、浄土の風が吹いていたのだ。
軽はずみでもいい、「しあわせ・・・!」と、フトささやいてください。

コメント

けっこう重い話と感じます。
手かせ足かせが幸せとは。
インパクトありましたので日記で紹介させていただけますか。

少し、加筆してみましたが、どうぞどうぞ。

本当にそうだと思います。
自分が幸せだったことに気づかなかっただけだったのですね。
今私は幸せです。といつも思い、言っていたら、その自分の言霊で本当に幸せな気分になっていけるのではないかと思います。どんなことが今あったとしても今私はとても幸せです。無限なる感謝
神様いつもお守り頂き有り難うございます

何時までも千枝子さんは純真で童のようですね。
素晴らしいことです。
神様は、いつもあなたの傍を離れる事はないでしょう。
感謝します。

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