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2011年03月28日

●生き方を変えるとき

福岡正信翁の「わら一本の革命(初版本)」や
斎藤晶翁の「牛が拓く牧場」、
シャーリー・マクレーン の「アウト・オン・ア・リム」等の名著を出版された
増田社長の地湧社から緊急メッセージを戴きました。
その文を御紹介します。
またそれに伴う書籍を用意します。

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3月11日に発生した「東日本大震災」を受け、
小社では隔月刊誌「湧」とともに3通のお手紙を読者の方たちにお送りしました。
ここに全文掲載させていただきます。

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生き方を変えるとき

 この度の震災で被災された方には心からお見舞いを申し上げます。
現在、大きな地震の力が誘因となって原子力発電所が大変危機的な状況にあります。
今後この影響がどの様なかたちで推移するか予測不可能ですが、
長期にわたって放射能の後遺症が残るのは確実です。

私たちは将来世代に大変な重荷を渡してしまうことになりました。
危険とわかっていたのに原発を止めることが出来なかったことは、
私たちの努力が足りなかったと残念でなりません。

さて、これから私たちはどう生きていったらよいのでしょう。
私たちは大きな幻想を抱き、欲望を増大し、その結果天然自然を破壊してきました。
その迷走を続けてきた進路を正し、大きく舵を切って、慎ましくも、
心豊かな生き方を本気になって実行していかなくてはなりません。

今回、二十四年前に「湧」の増刊号として出しました『まだ、まにあうのなら』
(甘蔗珠恵子著)を献本として同封させていただきました。
このブックレットはチェルノブイリ事故の数ヶ月後編集部に届いた
一通の長い手紙をそのまま出版したものです。

「湧」の読者の方にお読みいただいたところ、瞬く間に全国に拡がり、五十万部にも達しました。
子どもを持つ母親の発した叫び声が、人々の心の叫びとなって共鳴し、
原発の利用拡大に警鐘を鳴らしました。この英訳版は欧米の人にも共感を与えています。
その後このブックレット版を基に増補し、五年前に同じ題名で単行本として出版されました。

この本の中には、甘蔗さんの十九年めの手紙の他、浜岡原発裁判の原告代表、
馬場利子さんのメッセージを加えています。
こちらもお読みいただけると幸いです。

また、四年前には、『巨大地震が原発を襲う』(船瀬俊介著) を刊行しました。
チェルノブイリ事故が地震で起こったという論文を紹介し、原発がいかに地震に対して脆弱か、
また津波に関しても警鐘を鳴らしています。
合わせてお読みいただきたいと思います。

三月始めに、「湧」の読者でもあり、福島県川内村で電気もガスもない
自給自足の生活をしている大塚愛さんから、
偶然にも福島原発稼働四十年にあわせて廃止のためのアクションを起こすので、
「湧」で紹介して欲しいというお手紙をいただいていおりました。

被災地の大塚さんは今どの様にされているのか分かりませんが、
この原発廃止の想いを繋いでいきたいと思います。 
※アクションイベントのコピーを同封します。

                        2011年3月16日     地 湧 社

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『まだ、まにあうのなら』著者 甘蔗珠恵子さんからのお手紙

とうとう恐れていたことが起こりました。
やっぱり、本当に、今、
この日本で原発の大事故は起こったのです。

想定外、とは言わせません。
原発の危険を訴える真摯な人々の声に
耳を貸そうとはしなかったではありませんか!

私はこの現実を冷静に受け止めることができないでいます。
深刻な状態は今もつづき、
これからどのようなことになるのか、
想像もしたくありません。

祈るしかありません。
希望があるなら、
このことが私たちの生き方の転回点になることです。

                      2011年3月15日 甘蔗珠恵子

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浜岡原発裁判の原告・プラムフィールド代表
馬場利子さんからのお手紙

〜浜岡原発、お世話になりました。ありがとう!
 といえる日〜

3月11日に起こった東日本巨大地震は、多くの人の命を奪い、
街や暮らしを破壊し尽くし、未だにその被害の全容が掴めない混乱が続いていますが、
最悪の事態、世界史の中で初めて記録される『原発震災』になってしまいました。

福島原発は、地震で運転は停止しましたが、停電によって原子炉の冷却が行えなくなり、
放射能漏れを止める事が出来ないまま、5日が経ちました。

未だに悪夢を見ているようですが、地震当夜、巨大な津波の被害を報じる中に、
少しずつ福島原発のトラブルが伝えられ始めると、
私は、次に進行する原発震災のシナリオが手に取るように予測することができました。

それは、今回の福島原発の放射能漏れ事故は、
私たちが2002年4月に「老朽化した浜岡原発をマグニチュード8の
東海地震が直撃する前に止めよう!」と全国の住民1016名を申し立て人として
起こした『浜岡原発差し止め仮処分裁判』で主張した
原発震災と全く同じ様相だったからです。

浜岡原発仮処分裁判の申し立てを行うきっかけになったのは、
その前年(2001年)に起こった浜岡原発1号炉の配管の破断による放射能漏れ事故でしたが、
その時、私は裁判を起こすなどとは考えてもいませんでした。
しかし、この配管破断事故の新聞写真を見た私は、浜岡原発はすでに老朽化していて、
東海地震がこなくてもボロボロで、地震に耐えられるはずは無いと思い、
当時、17歳と12歳だった息子たちに、
「もし、ビルが壊れるような地震が来たら、誰も指示はしてくれないけれどこれを飲みなさい。」
とヨウ素剤を手渡しました。
しかし、何の責任も無い子どもに、ヨウ素剤を手渡す事しか出来ない自分自身に傷つき、
大人として何かもっと出来る事があるはずだ・・と思い、裁判に参加したのです。

多くの時間と労力を費やした浜岡原発仮処分裁判は
『国の耐震基準に準じている原発の運転は妥当』だと完全な門前払いで終わりましたが、
その間、巨大地震によって引き起こされるであろう原発震災の可能性について、
原告側である私たちは、多くの専門家の証人を得て、膨大な書面を準備して論証しましたので、
事務局長をしていた私は自然に、原発震災の全容を知るようになったのです。

こうして、息子たちにヨウ素剤を渡してから10年目の今年。
福島原発1号機で爆発が起こった12日(土)、
長男は「とんでもない事になったね。」と深くため息をつき、
悲しそうな顔でニュースに聞き入っていました。

夫は原発事故の報道の少なさや、国の対応の遅さから重大事故を予測し、
次男は、「これで、母さんが言ってきたことが正しかったと分かったね・・」と呟きました。
「こんな事故が起こって、私たちの主張が正しい事が証明されなくても良かった・・」
と言う私を見て、長男は言いました。

「どうして、そんな甘い事を言っているの。こんな事になってしまったのだから、
今、浜岡原発を止めなかったら、いつ止めるの? 今なら、皆が気付けるでしょ。」

福島原発でなぜ、原発震災が起こったのだろう? 巨大地震が東海地方で起こって、
原発震災は浜岡原発で起こっても良かったのではないか?
もし、浜岡原発で同じ事が起こっていたら・・。 そんな想いに揺られていた私でしたが、
「今、浜岡原発を止めなかったら、いつ止めるの?」という一言で、正気に戻りました。

これが現実ならば、幼い子どもたちを守らなければ・・・と、
放射能から身を守るためにできる日常的なアドバイスを書き、メールで配信し始めました。

そして、浜岡原発を止めるよう、中部電力社長と静岡県知事に願いを届けるために要望書を書き、
知人に賛同を呼びかけるメールを送りました。
すでに静岡市では、浜岡原発を考える市民グループが知事と中部電力社長へ
要望書を提出してくれていましたので、
私はより多くの人に賛同してもらい、福島原発の過酷な現実に押しつぶされてしまうのではなく、
浜岡原発に心を留めてもらう事で、一刻も早く浜岡原発を止めようと考えたのです。

3月13日の夜から呼びかけた賛同のお願いは、人から人へと転送されて、
2日の間に数千人の賛同が寄せられ、3日目の今日は、1万人をはるかに越えました。
インターネットで呼びかけをするのも始めての経験で、
仲間と一緒にこの巨大な賛同者名簿を前に、
新しい時代を目の当たりにしています。

この瞬間も福島原発の建屋の中では、放射能汚染を最小限に食い止めようと、
被曝をしながら作業をする大勢の人が居てくださる事を思うと、
感謝と辛さで涙が溢れてなりませんが、そんな私を励ますように、
私たちのスペースを初めて訪れてくれる若者たちや賛同者が後を絶ちません。

そして、年齢や性別に関係なく、初対面の人が
「浜岡原発はもう、要らないよね」と語り合う光景が見られるようになりました。
という事は、きっと日本国中で「もう、こんな危険な発電所は要らないよね・・・」
と話されているに違いありません。

「原発」という言葉も知らなかった私がチェルノブイリ原発事故と放射能汚染について知ったのは
『まだ、まにあうのなら』を手にした1987年でした。
そして、今、浜岡原発を止めたいと訪れる若者たちは、
チェルノブイリ原発事故を知らない世代、それでも原発は要らないと彼らは知っています。
 
私は浅い眠りの中で、二晩にわたり二つの光景を夢に見ました。
一つは、津波で壊滅され、見渡す限りの瓦礫の町に、送電線も高圧線電線もない、
自然エネルギー100%(太陽光発電、バイオマス発電、風力、波力、地熱発電・・)
地産地消の電気で暮らす新しい緑豊かな町がゆっくりと築かれていく光景。

もう一つは、県庁から市役所へと続く道を、色とりどりのプラカードで埋め尽くして
「浜岡原発が止まったお祝いのパレード」が、笑顔で喜び合って進む日の光景です。

その日を迎えるために、今回、要望書の賛同を募る中でもたらされた質問
「原発を止めたら電気が足りなくなってしまうのに止めてどうするの?」
「自然エネルギーは何が一番良いの?」
「原発を止めたら、どうやって廃炉にするのですか?」
の一つ一つに資料を作ったり、意見を聞いたりして、未来を共有していきたいと思っています。

悲嘆や悲観ではなく、何を目指し、何をしていけるのか、考えるきっかけを私たちは手にしました。

放射能汚染という大き過ぎる代償を払った日本の原発と日本の暮らし。
原発は国策・・・という人がいます。
では、国策を決めるのは誰なのでしょう?
「国の基準だから安全」、
「原発は絶対安全」と言い切る人が居ました。

子どもだって信じないそんな話を信じた大人たち。
巨額の税金が原発のある町にもたらされるのは、危険手当だったのですね。
もう、原発のお伽噺から覚める時が来たと思います。

             2011年3月16日     馬場利子

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「湧増刊まだ、まにあうのなら」 私の書いたいちばん長い手紙
            315円(4月7日以降入荷)、
1050円[単行本]  甘蔗珠恵子 著 
人類の行く末を案じた一人の母親の叫びが、
全国の主婦や若者たちに脱原発の行動を促した。

「何という悲しい時代を迎えたことでしょう」の書き出しで始まる主婦の手紙が、日本に脱原発の波紋を投げかけた。放射能の子どもたちに対する影響、食品汚染のメカニズム、原発推進の愚かさ、電力需要のトリック、放射性廃棄物の危険性など…、チェルノブイリの原発事故に触発されて学んだ事実の重大さに対する驚きや恐れを率直に綴り、原子力の文明を抜け、一人一人が安心して暮らすことのできる世界の実現を訴える。脱原発に向けて立ち上がる勇気を与えるメッセージ。

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「巨大地震が原発を襲う」 チェルノブイリ事故も地震で起こった 
                           船瀬俊介著  定価1995円
チェルノブイリ事故から中越沖地震までの地震と原発の情報が凝縮

2007年7月16日中越沖地震で柏崎刈羽原発は、壊滅的なダメージを受け、大量放射能漏れ事故寸前だった。
著者は、チェルノブイリ事故が地震で誘引されたとするロシア科学アカデミーの論文の内容を紹介し、その後のチェルノブイリ事故に対する様々な隠蔽、偽装工作をあげて地震誘因説に信憑性を信じて疑わない。そして、地震列島である日本の原発55基について、様々な偽装と欺瞞を暴き、即刻停止するように訴える。また、地震による津波や人為的な攻撃に対しても、いかに原発が脆弱であるかを指摘する。なお、地震誘因説については、ほとんどの学者が、地震の事実を認めるものの、直接の誘因になったことを証明しきれないとして否定している。しかし、その事故原因をはあくまで人為的なミスとして片づけられ、その偽装性を疑おうとはしない。

偽装やねつ造、隠蔽など企業や個人の独りよがりにより、大量の人間のいのちが危険にさらされている。一部の人間に都合のよい解釈(不都合な真実)でなく、自然科学に基づいたより真実を探求していく姿こそ人類が幸福になっていく道ではないか。

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「放射能はなぜこわい」 生命科学の視点から  
                柳澤桂子 著 本体650円+税
 
なぜ放射性廃棄物は危険なのか。
今、私たちがしなければならないことは何かを切実に問いかける。

4月10日以降入荷。

長年にわたって遺伝学の研究に携わってきた著者が、その体験をふまえて、遺伝子レベルの視点から生命に対する放射能の影響を警告。放射能によってガンや奇形が発生する過程、あるいは成長の途上にある幼い子どもほど放射能の影響を受けやすく危険な理由などを、図説を交えながら分かりやすく説明する。原子力発電は、事故の危険性ばかりでなく、運転されるだけでも放射性廃棄物が出され、それは確実に環境中に蓄積する。生命の三六億年の歴史に照らして、原子力の現在のような利用が、果たして正しいものなのか、根本的な疑問を投げかける。

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