●現代語訳『神皇紀』 発刊!!!
(現代語訳 『神皇紀』 −徐福が記録した日本の古代(富士古文書)−
まほろば扱い ¥2500)
私の亡くなった祖父の実家は、山梨県富士吉田市の明見にあります。
その本家の石蔵には『富士古文書』、別名「宮下文献」という古書が、
長い間、封印され眠っておりました。
これが開陳されたのは明治以後で、その内容は驚嘆すべき事項で綴られています。
写真版で全七巻の膨大な古文献で、それをダイジェスト版に纏めた物が、
大正年間に発刊された『神皇紀』で地理学者・三輪義熈氏の手になるものでした。
とはいえ、未だ文語体で現在人には馴染みがないので、
なかなか通読することは困難で、しかも絶版でした。
これを、「徐福会」の有志面々が、現代語訳を志し、
遂に完成に漕ぎ着けました。その労を讃えます。
ここに、新たなる古代史の活写を見ることが出来ました。
謎に充ちた日本歴史の一頁を開くものと信じ、
是非、一読されん事をお勧めします。
なお、巻頭に元首相の羽田孜氏の言葉が添えられています。
羽田は秦(しん・はた)に通じ、徐福の末裔であると推察します。
ちなみに、明見の墓誌名には、宮下と羽田が多い事に驚かされます。
大和王朝以前に、関東圏に富士王朝があったという一大ロマンは、
日中韓三国の古代史の謎を解く鍵になりそうです。
推薦のことば
このたび神奈川徐福研究会の有志により、
三輪義熈著「富士古文書資料〈神皇紀〉」の現代語訳が行なわれ出版されることは、
誠に喜ばしいことであります。
富士古文害(富士古文献、或は宮下文書ともいう)は、
BC3世紀に秦の始皇帝の命令により、
方士(道教を修行しその祭儀を執り行う専門家)の徐福が日本へ渡来し、
九州や新宮を経由したのち、現在の富士吉田市に定着しましたが、
そこには文字を知り記録を世襲で行っていた人々が先住していて、
日本の開闢以来の歴史を口伝や文字による記録を伝承していました。
徐福はこれらを編纂し"徐福十二史談"にまとめ、
その後も徐福の子孫や関係者が歴史の記述を続け、
膨大な歴史文献の集合体となりました。
これらの文献は富士山の噴火や水害、人為的な焼却に遭い、
原本はありませんが、重要な歴史資料であることを知る人々により、
写本が作られ富士吉田市の宮下家が代々保管し現在に至っており、
これ等の文献の集合を富士古文書と呼んでおります。
大正10年、三輪義熈氏がこれらを集大成しA5版500頁に編集し
「神皇紀」と名づけ書籍として出版いたしました。
しかし、この神皇紀は明治・大正時代の文語文により記述されているので、
一般の人には読みにくいものでした。
現在は絶版になってしまいましたが、
古代史や徐福を研究する上では有益な資料であり、
一部の専門家だけでなく多くの人々に目を通してほしい資料です。
神奈川徐福会有志による現代語訳は時期にかなった活動であり喜ばしく思うとともに、
自費出版のボランティア活動であるということにも
敬意を表する次第であります。
私自身も徐福については興味があり、
中国に招かれて徐福関係の各種の行事に参加したり、
関係者と交流の機会も多く、また国内においても徐福関連の活動もあり、
徐福会の顧問などもやっております。
.というのも、私の一族、羽田家は家系図によると、
渡来人の子孫で聖徳太子の側近として6世紀末から7世紀初めに活躍した
秦河勝が先祖であります。
そしてそれよりも古い徐福との血脈関係の物的証拠はないものの、
私白身は徐福といえば血が熱くなり、
徐福に関する研究や行事にはつい熱が入るという状況であります。
徐福の足取りは中国、韓国そして日本です。
徐福はこれまでこの3カ国において伝説の人という位置づけでありましたが、
近年中国で徐福の実在が考古学的に実証されました。
これにより、日・中・韓において、徐福に関する研究や交流が盛んになりました。
徐福自身が唯一日本に残した事績である富土古文書は、
今後、益々資料としての重要性が高まり「神皇紀」現代語訳の役割も大きくなり、
多くの人に利用されることが期待されます。
2010年11月吉日
日本国元内閣総理大臣
衆議院議員 羽田 孜