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2011年07月16日

●吉松理事長、大道寺報告、第二弾

ザビエルと六段の調べで始まった
山口県・吉松さんとの遣り取りの第二弾。
その報告を見て、またビックリ。
道場門前商店街振興組合で、日本初の
キリスト教会・大道寺跡地のプレートを造ったという・・・・。

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まほろば  宮下周平 大兄様

    山口  吉松 昭夫 拝


大道寺について、少し御案内いたします。
ザビエルは山口に2度訪れています。
日本の有力者として、足利氏と大内氏を1回目訪問。
1回目の時に、大内氏の男色を批判し、即刻断られています。

京都の荒廃を見て、
2回目の訪問時はインドゴア総督の豪華な紹介状持参。
同時に鉄砲やオルガン、望遠鏡、メガネ等、
何よりワインが気に入ったのではないでしょうか。

信長が鉄砲に着目したのと大差のあった大内義隆は、布教
(キリスト経とは認識せず、インドから来たので仏教の一派と思っていたらしい)
許可したものの、脳天気ぶりに武闘派陶氏に、
殿様失格と追放自刃しました。

陶氏の立てた大分の分家だった大内義長が
布教の本拠として“大道寺”を与えました。

近年まで、この位置について、戦後、山口古図に印された
(江戸時代製)地図から私達の道場内前とは
別の位置に記念碑が立てられました。

その古図も、道場門前にあった脇本陣の屏風絵だったことも、
なにかの因縁ですが、私自身、
この商店街に“あった”ということが話題になったことを、
2年前まで知りませんでした。

それでこんな事では忘れられると史料を集め、
商店街内にプレートを設置したのが去年の年末です。
今後の展開を企画しているところです。

doumonnkiji.jpg

実は、大道寺のあったとされる場所。
明治維新にも関わってます。
脇本陣阿部家の別館、沈流亭がありました。
ここで、長州〜薩摩同盟の最終合意をしました。

西郷、小松帯刀、桂小五郎等が集まった所です。
当然、仲介者の坂本龍馬も変名でいたはずです。
今、この沈流亭の再建についても活動中です。
山口市は、維新実行時の舞台ですが、萩、下関に遥かに遅れを取っています。

井上馨が維新後、稀代の悪徳政治家になったこと、
奇兵隊諸隊は利用され使い捨てにされたことと無縁ではないでしょう。
第2代奇兵隊総督、赤根武人も首をはねられました。
これも、倒幕か討幕かの違いでですからね。

坂本龍馬もその理由で、西郷が襲わせたとの説が専らでした。
龍馬は、お龍と共に、鹿児島滞在中アイヌ語を習っていたと、
お龍が言ってます。
龍馬は、北海道こそを理想の実現地域としていたんですね!

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