●「特攻おばさんとの誓い」
特攻隊というと、軍国主義復活などと悉く否定された時代が続いた。
そんな中、数学者の岡潔先生は、常に語っておられた。
「死する事、帰するが如し」
日本の歴史の中で、義の為に櫻の散るが如く散っていった命の数々。
それが、日本を美しく染め為して行った。
倭健に代わって入水した弟橘媛、皇位を譲るに自害した菟道稚郎子などなど・・・
米軍が特攻隊を見て、欧米の死生観ではあり得ず、心底驚懼した、と。
死生を越えた生き方が出来る日本人に今の難局を託す。
くれぐれもこの一事を以て、軍国主義賛美という馬鹿なことを言う勿れ。
(神坂 次郎 (作家) & 地頭薗 盛雄 (鹿児島県少飛会会長))
「特攻おばさんとの誓い」
地頭薗盛雄 (鹿児島県少飛会会長)
『致知』2006年7月号
特集「悲しみの底に光るもの」より
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【地頭薗】私も仲間のことは、きょうまでひと時たりとも
忘れることができませんでした。
当初は、仲間たちと編隊を組んで飛んでいる夢を
毎晩のように見ましてね。
終戦の混乱の中で、なんとか彼らの供養をしたいと
考えていました。
幸い、南日本新聞社に少飛四期の大先輩である
児玉敏光さんがおられましてね。
その方のお力も借りて、鹿児島県少飛会を結成し、
慰霊顕彰事業を始めることができたのです。
その時最初に行ったのが、出撃前の飛行兵たちが通った、
富屋食堂の鳥浜とめさんのところでした。
【神坂】“特攻おばさん”と呼ばれて、
皆から母のように慕われていましたね。
【地頭薗】児玉さんと二人でとめさんを訪ねた時、
出撃した宮川軍曹が蛍になって帰ってきた話や、
朝鮮人の光山少尉が出撃前にアリランの歌を歌った話など、
当時の模様をいろいろ語ってくれました。
その話を南日本新聞に載せたことで、
とめさんのことが全国に知られるようになったわけです。
【神坂】 そうでしたね。
【地頭薗】とめさんは特攻隊員を見送る時、隊員から
「元気に行ってくるよ。アメリカの軍艦をやっつけてくるから」
といった言葉をかけられるんですが、
そのたびに、なんとも寂しい、
やりきれない気持ちになったんだと。
あの気持ちはとても忘れられないといって、
私が訪ねていくといつも涙を流されていました。
【神坂】 私が訪ねた時には、
「僕の生命の残りをあげるから、
おばさんはその分、長生きしてください」
と言って、うまそうに親子丼を食べて
出撃していった一人の少年飛行兵のことを語って、
「あの子のおかげで私ゃこんなにも長生きしてしもうた」
と涙をにじませていました。
【地頭薗】私はそのとめさんから、
「自分が死んだ後も、どうか慰霊顕彰は続けてください」
と頼まれた。しかし、最初はいろいろ反対されて
なかなかうまくいきませんでした。
粗末だった観音堂を新しくしようと
地元の議員に働きかけた時も、
軍国主義の復活につながるからと反対されたりしましてね。
しかし私は、祖国を救いたいという純粋な気持ちで
あの世へ行った特攻隊員たちの気持ちを忘れないために、
説得を繰り返しました。
努力が実って、昭和三十年には特攻平和観音堂を建立し、
第一回知覧特攻基地戦没者慰霊祭を開催することができました。
四十九年には特攻勇姿の銅像「とこしえに」を
建立することができ、慰霊祭も年々盛大に
行われるようになりました。
銅像の建立のことを報告しに行った時、
とめさんが私の手を取って涙を流された姿は、
いまも忘れられませんね。