先日まほろばの店内でグラスにたっぷり入った一杯の水をすすめられたのでゆっくり味わった。なんともうまい、特別の感触があった。 私は子どもの頃から自然の中で出会う湧水には必ず味を確かめてきた。コトコト、ゴッポゴッポ、シーシー、というような静かに聞こえてくるさりげない音に誘われて。

 
それらの水は正にうまいの一言に尽きる(周りの空気や光の匂いも手伝って)。 「エリクサー水」の味には深さや重さ、強さといったものが加わった丸みがある。 特に強さあるいは丸い強さといったものの感触にはそこに触れるものに変化を与え変容させずにはおかれない或る何かを感じさせる。
 古代ギリシアのタレス(哲人)は<元>のものを<水>とした。なぜそうなのかはわからないが、元のものが水であるなら、逆に水が元のもの即ち神仏あるいは自然そのものであるともいえる。

 ロシアのタルコフスキー(映像作家)は水はモナドだ、といっていた。水は宇宙を映し出す鏡であるというような意味であろうが、だとすると、水は自身を、人類を映し出す鏡であるともいえる。 初めは鏡であり、<元>のものであったはずの水が、今や汚染物質である。このような水をも映し出せる水、それが<元>のものであり、モナドである。

U.エリクサーの水を使ってみて

 ここ数週間《まほろばエリクサー水》を使用させてもらって、酒まんじゅうを造っている(こうじと無農薬玄米を基にした植物性発酵食品で、体内の主に腸内善玉菌の活動の活性化を助ける補酵素食品・伝統食品)のだが、試用効果が表われて来るにつれて、その威力には翻弄されっぱなしである。

 まず、このエリクサー水を使うことによって各種素材の味がどれもみな似たような味になるということが起きた。つまり、夫々の素材固有の味(力)がエリクサー水の力(味)に打ち消されてしまうということである。脇役が主役を食うとでも言おうか、である。しかし、このことは必ずしもマイナスではない。味そのものの質が下がったわけではなく、むしろ以前よりも味は上質になっているのである。従って味が一律になるということイコールこの水に問題があるということではない。むしろ素材の用いかたの方を工夫しなおす必要がある。(そのことは素材の膨らみ、弾力、発酵孔のきめの細かさ、等のいずれもが以前にも増して密度あるものになっているし、見た目には以前のものよりも一回り大きく見えるし、感じられる。)

 試用水が無くなったので中断していつもの水で造った。ところが全く膨らまない。不安で眠れない。そんな日が一週間続いた。その頃になって少しずつ膨らみ始めた。 このことは一体何を意味するのか。今も自分なりにいろいろと思い巡らせている。 いずれにしろこのエリクサーの水には、この水固有の個性(主張性)が秘められていることは確かなようだ。
 

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