2007年10月31日

●中学生の総合学習

今月10日と26日、中学生の「総合的な学習の時間=ACT」の一環として
二校の生徒が、まほろばにやって来た。

厚別北中学校 3.jpg

札幌市立厚別北中学校からは、
石岡紗弥さん、中岫遥さん、鈴木優美さんが、
「有機農業」について。

厚別北中学校 2.jpg

札幌市立宮の森中学校からは
永田大智君、萩野泰史君、宮部祐太郎君、齋藤寛樹君、山上貴大君、金井理晃君の六名で、
「地産地消」について。

宮の森中学研修 2.jpg店内で


総合学習の中で、『環境問題』が取り上げられ、
特に温暖化解決の糸口に「地産地消」や「有機農業」の現場を研修先に決めた、という。
その先見性に、先ずビックリ!!そして、素晴らしい!!
と、若き中学生に拍手を送りたい。

その素直さと反応の早さにも、驚き、
感性の穢れていないことに、本当に安心してしまった。
暗澹たる学校騒動の中で、こういう生徒もいたんだ!!

宮の森中学研修 3.jpg畠の前で

有機農法と慣行農法。地産地消と遠産遠消。
いずれも環境に負荷をかけずにどうしているか。
農薬・化学肥料の害、輸送による二酸化炭素排出。
温暖化の元を、食の生産現場から見詰めなおす。

そこには、最初彼らが考えていた効率主義や儲け主義はなかった。
大地を這いずり回って働く姿を見た。
自然に優しいということは、
自分に厳しいくないと出来ないことを
学んだろうか。

スローフードや伝統食の復興は、
実は、まほろばが掲げている
「小国寡民」に尽きると思っている。
http://www.mahoroba-jp.net/about_mahoroba/syoukoku_k.html

昔は、大きく成ることがカッコウ良かった。でも、
今は、小さく収まることがカッコウ良い。

何も出来なくても、
「よくはなく、
けっしていからず、
いつも、しずかにわらっている・・・・・・・」
人々には、真理の里が待っている。

そんな、ささやかな夢を持つことこそ、
これからの若人に託したい。

宮の森中学研修 4.jpg
初の大根抜き
厚別北中学校 1.jpg終わって記念撮影


畑には、物凄い雪虫が空中を乱舞して、服中についてしまった。
この歳まで、こんな多い雪虫を見たことがない。
山の中だからか、異常気象なのか、分らない。

この季節、どこから生まれ、どこへ去るのか、雪虫よ。
お前が来ると、やがて冬の訪れ。
その白さは、小雪のよう、美雪のよう。

いよいよ、日一日、夜一夜として
農園にも厳しい冬籠りの足音が迫り来た。

宮の森中学研修 5.jpg雪虫が舞う

2007年10月30日

●国際結婚

ディタ&久美.jpg

先日、ドイツに嫁いでいった姪の久美ちゃんに赤ちゃんが生まれた、
という報告を母から電話で受けた。

相手は、何年か前に、まほろばにもやって来たディタ君だ。
クラフトデザイナーだったか?、何かやっている。

食べて行けるかどうか、双方の両親は心配しているが、
まー、きっと何とかなるのだろう。
ドイツも今、不景気の就職難で大変らしい。

でも、ディタの両親は、久美をとっても可愛がってくれている。

ともあれ、国際結婚で、日独に友好の架け橋がかかって、
世界が平和に近づけば嬉しい。

そういえば、小学生の時、先生が
「世界に戦争や差別を無くすのに、
みな国際結婚すればいいんだ・・・」
と、話された言葉が妙に印象に残っていた。

周りにも、そんなカップルが多く、
案外うまくやっているので、
「それもそうかな・・・・・」って、
思う今日この頃である。

2007年10月26日

●いよいよ、土大根出荷!!

 「農園の大根&みかん・りんご」.jpg

手稲山系は、既に白い雪を被る。
山の紅葉は赤黄に染めなされ、晩秋の気配深まる。

20,000本の土大根、いよいよ出荷!!
重ねて、25,000個の白菜も出番!!

年々、少なくなる漬物作りの風物詩。
自慢ではないが、まほろばの野菜で仕込んだ漬物は格別!!

伝統食の復活。
自給自足の第一歩。
発酵食品の台頭。

大根10本を先ず、軒場に干してみよう!!
白菜一袋、次に樽に漬けてみよう!!

手塩にかけた漬物は、
何よりも心が満足!
家族が満足!
そして自分が、
そして
神さま、満足!!

●トータルヘルスデザインさんの取材

THD 2.jpg

15日に京都の潟gータルヘルスデザイン(THD)さんの取材を受けました。
毎月発行されている「元気アップニュース」は全国3万人に無料配布されています。
長年「エリクサー」や「結」を扱って下さって、感謝申し上げます。
その日、遠藤幾磨さんと滝澤朋子さんお二人で来店されました。

何時も感心するのは、近藤洋一社長の方針で、
間接取材でなく、直接取材を貫いている点です。
あくまでも現地に赴いて人々の生の声を聞くという姿勢には、
私共も反省させられ、学ぶことばかりです。

今回札幌では、エッセンチアさんとまほろば。
そして帯広に飛び、
共働学舎の宮嶋さんとお客様、
そしてまた戻って組み紐の山田さん、そしてお客様。
とハードな過密スケジュールの中、
精力的に日本全国を飛び回っていらっしゃいます。

今回は、まほろばのために頁を割いて下さって、
特に「結」を特集して下さるということです。
一つの商品のために遠路はるばるお越し戴く事に
恐縮すると共に、深く感謝申し上げるばかりです。

益々のTHDさんのご発展を祈る次第です。

http://www.thd-web.jp/
http://president.thd-web.jp/index_1.html
http://blog.thd-web.jp/http://iyasirotei.thd-web.jp/

THD.jpg

2007年10月24日

●ウィーン わが夢の町

ウイーンわが夢の町.jpg

ある朝、NHKラジオから聴こえる朗読に、
しばし耳を傾けた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「みんな、聞いてくれ」
その声に、下がっていた歌手達が、いっせいにカラヤンの周囲に寄ってきた。
「この娘は、東洋の果ての、日本という国から一人でやってきた。
私は、日本へは何度も公演でいっているから、どんなに遠い所か、よく知っている。
寂しい思いをしているに違いない。
どうか、みんな、これから彼女の支えに成ってあげて欲しい」
足が震えた。
立っていられなかった。
私は、カラヤンの前で、膝をついてしまい、その場で号泣した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

東洋人として初めてのウィーンオペラ座の楽員になったアンネット・一恵さん。
長年の人種差別のイジメに精も魂も尽き果てて、その日、舞台の中で皆の見せしめに遭った。
正に崩れんとする時、あの指揮者カラヤンは、初めて日本人の歌手を驚きの眼で見つけた。
そして、救いの手を差し伸べる。
それまで蔑視していた合唱団員は掌を返したように一恵さんへの見る目が変ったのだ。・・・・・・・・・


カラヤン.jpg
(カラヤンにサインしてもらったベートーベン第9のレコード)

私も16歳の時、カラヤンに会って、
話しが出来てサインまで貰った4,5年後の事件だったので、
一際、興味深くこの話を聞いたのだ。

一恵さんのそこに至るまでの凄まじい半生の足跡を越えて来た、
その生命力に感動した。

本の帯にこう記してある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ひとは、これほどの目に遭っても、花を咲かすことができるのか」
極貧生活、
いじめ、
音大受験失敗、
人種差別・・・・・・

それでも夢を捨てず、
東洋人初のウィーン国立歌劇場団員歌手となって30年余。
その凄絶な半生を自ら明かす、
感動、勇気、驚愕の自伝。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上海で幼少期を過ごし、戦中、大陸を放浪し、一家離散。
知人宅に預けられ、看護婦になって音楽の通信教育を受ける。
養女となって上京し、音大を受験するも失敗、正式な学校教育を受けられなかった。
31歳で日本脱出し、ウィーンにて生涯の師に逢い、それから運が開け、
オペラ座の団員、更に欧州の音楽会で歌い続けている。
そして、今、日本でも声楽指導に当たる。

しかし、その過程の貧乏、差別、イジメは筆舌に尽くし難かった。


中卒で、24歳で定時制高校をでて、
音大の受験に失敗した30歳を越えた無名の女性が、
オペラの大殿堂、本場ウィーン国立歌劇場に、
どうして入団出来たのか、
誰が、信じられるであろうか。

オーストリア人が歌舞伎役者になったと同じ事が、
どうして出来たのか。
想像を絶する困難を越える
彼女の逞しさ、願いの強さに驚かされるのだ。

それは、ただ「歌いたい!」という一念で、
誰もが挫けるであろう壁を突き抜けた。

一人の人間にこれだけ厳しい困難というものが下されるだろうか。
そして、女性の身でこれだけ劇的な回天の力を得れるであろうか。

「天は越えられない試練を降さない」という。
人には、隠れた奇跡の力というものがありうる。

そして、信じるところに、
必ず不思議の助けというものがあることを、
知るのだ。

アンネット・一恵さんの半生記を読むと、
誰もが自分の豊かさに気付かされる。
誰もが自分の生き方の生温さに気付かされる。そして、
誰もが自分の悩みや困難さを突破できる希望を見出すであろう。

この奇跡劇は、特殊な才能の持ち主が勝ち得たサクセスストーリーでなく、
自分の夢実現のために、自分を困難な場に身を置いていない
現在に気付くべきものなのだろう。

そして、「自分は何時でも生まれ変わることが出来る!」
と、いう確信が与えられるはずだ。

2007年10月20日

●氣の達人・若山敏弘先生

若山先生.jpg
(左:若山敏弘先生、右:池谷友樹雄先生)

三軸修正法の指導家・池谷さんとは、創業以来のお付き合い。
その飾らぬ素そのものの人柄は、現代の仙人のようでもある。
実は合気道や武道の隠れた達人でもある。

先年、東京のある武道の会で組み手をされていた。
その尋常ならざる手技を、相手の方は見抜かれ、
「是非指導のほどを」と請われたのが、
何とあの治療の達人、超念力で有名な若山敏弘氏であった。
互いにその場で名を明かして驚いたのは言うまでもない。
爾来、刎頚の交わりをされている。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/healing1/

若山氏は、以前船井会長と共著で「本物の力」を出された。
丁度、エリクサーを造っていた時なので、
その中の「オトドメ石」なるものに興味を持っていたことから
氏の名を記憶していた。

若山先生 2.jpg

それが、池谷さんと昨日来店され、楽しい話に花が咲いた。
その若山さんの力量はHPでご覧になって頂ければ、想像するに余りある。

http://fushigi.accnet.co.jp/archives/Syuzaiki/cyonenriki.html

氏の修行当時、世界中に師を求めて探し続けるのであるが、
その伝授料に300万円を要求された時も、動ぜず即金で求道したという。
ましてや50万、100万は安いという。
何故なら、師が50年かけて習得したものをたった30秒で戴くのである。
こんな格安な安易なことはないという。
そして見て、パッと理解するという。
その間、30秒にも満たない。

だから、師の歳を足していって、若山さんは現在
おん歳、350歳だそうである。

お話の中で、特に印象に残ったのが、
治療家や健康指導者の早死にのことであった。
大体、60歳前後で亡くなっている。
私が記憶する方々の多くも不思議と同じである。

これは、何故か。
それは、相手の邪気・邪霊を引き受けるからだという。
よく治療師の方ほど、体を痛めているという話を聞く。

患者が治るということは、
自分がそれをそっくり引き受けているからだという。
そして、それはゆっくりとボデーブローのように
体と心を蝕んで行く、と言うのだ。

それを、若山さんは、現場でいやと言うほど見てきた。
それは、間違いなく相手の因縁を頂戴することだ。
だから、「安易な病気治しはすべきでない」と断言する。
それは、自分のみならず、家族や弱い者に影響を及ぼすという。

「特に、0-リングは霊気だから、気を付けなさい」と言われた。
それは、相手の情報をこちらに受けるから、危険であると。

ガンの専門医ほどガンで死ぬ確立が著しく高い。
それは明らかにその因縁と波動を受けるからだろう。

また、精神世界の方ほど、実は細い上ばかり見て、
下の広い悪因縁を取り除かないでいるから、大変であるとも言われた。

治癒は食事が20%。
あとの80%は憑霊である。
だから、病気治し、健康相談は怖い、と。

これは、先の寺山心一翁先生と同じことを言われた。
「病気は憑依である」と。

これからは、ヒーラーや治療師のため指導が必要になって来ている。
自分は、そのための仕事をする、と言われた。

目に見えない世界は、神仏の光の世界もあるが、
反面、怖い深い闇の世界でもある。

日常茶飯事の中で、実は色々操られていることが多いらしい。
身を慎み、当たり前のことを、当たり前のように、歩むしかない。
孔子曰く、
「怪力乱心を語らず」と。

2007年10月19日

●発想法のすすめ 2

灰屋紹益(はいやじょうえき)は、本阿弥光益の子で、本名佐野三郎重孝、富豪灰屋紹由の養子となり,通称を三郎兵衛、剃髪して紹益と号し、「法橋」の法位を授かっていた。

元より、佐野家は、南北朝時代から紺を染めるための灰を扱う豪商で、元禄期の京都を代表する町衆の一人だった。灰買人として全国に3,300軒もの生産者を抱えていた。

 捨てるはずの灰を菜種油などと物々交換で集めて節税し、それを農業・酒(酢酸発酵した酒の中和剤として)・和紙・染物(紺灰として。藍玉から紺色の染料を取る際、藍を発酵させるために用いる木炭)・焼物(釉薬)など様々な産業分野に利用販売して巨万の富を築いた。

 畑の字は漢字で火と田の組み合わせで焼畑農業を意味する。畠は白い田の組み字の国字である。この畠にはカリ分の栄養素がなく、灰を蒔く事でよく作物が成った。本来、植物はカリが主成分で、灰はカリウムで必須成分なのだ。そのため、多くの農家に広く売れ、農業の再興に貢献したのだ。灰の市に関しては、柳田國男の「火の国」に詳しい。

 紹益は、単なる商人に留まらず、和歌を烏丸光広に、俳諧を松永貞徳に、蹴鞠を飛鳥井雅章に、茶の湯を千道安に、書を本阿弥光悦と言うように、当代一流の人物から学んだ知識文化人でもあった。
 また、井原西鶴の「好色一代男」の主人公世之介のモデルとも言われた。

灰屋紹益 4.jpg

 この、紹益の最初の妻となったのが、本阿弥光悦の娘だが早逝し、後妻を迎えたのが、当代きっての名妓と言われた二代目吉野太夫その人だった。 吉野太夫は、実に聡明にして、和歌、連歌、俳諧は無論、琴、琵琶、笙の管弦をよくし、書、茶湯、立花、貝合わせ、囲碁、双六に至るまで諸芸万般すべて達人の域に達し、その名声は遠く明国にまで聞こえた。

 「好色一代男」の中では、七条の小刀鍛冶駿河守金綱の弟子が吉野を見染め、せっせと小金を溜めたものの太夫を揚げることができない身を嘆いていると、それを聞き知った吉野は不憫に思い、ひそかに呼び入れて一度だけ情を叶えてやる、と言う話が出て来る。この話を聞き知った紹益は、その心意気に惚れて、吉野太夫を身請けした。しかし、恋がたきの公卿と張り合い、千三百両を投じた末のことであった。これで、父から勘当された話は有名で、この父が、雨にあって傘を借りに入った家の妻女の、茶立てやその外の振舞が礼にかなっているのに感服、その妻女が吉野太夫である事が分って、勘当をゆるしたという逸話がある。

 しかし、二人の幸せな期間は、長く続かず、吉野太夫は身請けされて12年ほどたった38歳の時に亡くなった。紹益にとり、身を引き裂かれるほどの悲しみだった。
 「都をば 花なき里と なしにけり 吉野を死出の 山にうつして」
と言う歌を詠んでいる。

灰屋紹益 1.jpg

 しかし、それよりも凄まじい話が残されている。
紹益は、吉野を荼毘に付した後、その骨灰を壺の中に残らず納め、そしてその遺灰を毎日少しずつ酒盃の中に入れて、吉野を偲びながら悉く飲んでしまったと言う。
 現在、京都の鷹が峰にある常照寺には、二人の墓がある。著に『にぎはひ草』が有る。
元禄4年(1691)11月12日死去。享年82歳であった。


 「骨まで愛した」紹益の純愛は、後の語り草となったのは言うまでもない。男の面目、女の冥利に尽きるというものであろう。
捨て物の灰を再利用した卓見と、それを事業化させた器量、そして柔軟な文化人の華も持ち合わせ、当代一の才媛を大枚で請ける度胸、そして最期まで貫く至純のハートの持ち主。
これは男女の境を越えて、この世の人として、理想像がイキイキとしてここにある。
清々たる脱俗にも留まらず、紛々たる俗臭にも染まらず、易々として両岸の橋を行き来した軽やかさは、人間として見事と言う他はあるまい。時代を超え、これなら男女ともに惚れ込むに相違ないであろうと嘆息して、我が身の拙さを振り返った。

灰屋紹益 3.jpg(灰屋紹益書付)