「エリクサーから無限心へ W」の結論は、
『母性』であった。
それは、次代のキーワードであり、
現代の混沌を説く鍵であると確信している。
「ダヴィンチ・コード」のテーマも、そうではなかろうか。
キリスト教という宗教さえ男性優位のヒエラルキー、
権力構造を形成し、この2000年間、
差別・戦争という人類の無明を
遂に解決することが出来なかった。
いな、この根底にある男女格差の思考が、
今日の混沌を創り出したともいえる。
先日、このテーマに楔を打つ科学的考察が放映された。
NHKの特別スペシャル「女と男」を観られた方も多かろう思う。
一言で言えば、男性がこの世から消える、ということだ。
「性染色体がXXなら女、XYなら男。
1億7千万年前に獲得したこの性システムのおかげで、
私たちは命を脈々と受け継いできた。
ところが、この基本そのものであるシステムは、大きく揺らいでいる。
じつは男をつくるY染色体は滅びつつあるのだ。
専門家は「数百万年以内には消滅する」という。
なかには、来週になって消えても不思議ではないとする意見さえある。
じつは「遺伝子できちんとオス・メスを決め、
両者がそろって初めて子孫をつくる」というのは、
私たちほ乳類が独自に獲得した方法だ。
ほかの生物はメスだけで子孫を残せる仕組みを持っている。
そのほ乳類独自のシステムが長くほ乳類の繁栄を支えた一方、
いよいよその寿命が尽きようとしているのだ。
さらに人間の場合、Y染色体を運ぶ精子の劣化も著しい。
これは生物学的に一夫一婦制が長くなった影響だという。
こうした性システムの危機に私たちはどう対応すべきなのか。
シリーズ最終回では、いわゆる試験管ベイビーが生まれて30年、
生殖技術をめぐる最前線もたどりながら、
現在、性の揺らぎが引き起こしているさまざまな影響を追う。」
(NHKスペシャル・『シリーズ女と男/最新科学が読み解く性』より)
その時、私が直感的にイメージしたのが、
「無極、太極を生み、太極、両儀陰陽を生む。・・・・・」
と言った『易経』の件(くだり)だ。
万物の存在は、元々一元である、という思想哲学。
ならば、男女の性も、果てしない太古には、
別は無かったはずだ、という推論は成り立つ。
そして、分かれた両性は又何時か、一元に戻る時が来る、
という遠大な生命論理の予測は、
測らずも、科学の視点で、これが立証されそうなのである。
女性器には男性器も兼ね備わり、本来両性具有であると言われている。
女性から分化したのが、男性であり、元より従属的性である。
この生理的、派生的起源を辿れば、放映されたように
生殖目的、子孫繁栄のために、男性が長い歳月の間に発生して、
また用を無くせば、放擲される存在であることも事実らしい。
何とも、一男性とすれば、寂しい話であるが、
それが大概的に見て、現実性を帯びる。
例えば、宗教的に見れば、観音様や如来様は、
男女の性を超えた両性具有であり、
霊界ではそれが本性であるようだ。
だから、生命の本質から見れば、
生んで育てられる女性が性の本来であり、
最後に生き残るのは、女性なのであろう。
やはり、「女は強し、母も強し」なのである。
ちっとも、女が弱しとはならない。
つまり、この世から男がいなくなっても、女性は困らないのだ。
この有史以来の戦闘に明け暮れた人類史は、
男性優位社会の出来事であった。
それ以前の無史は、女性本位の母性社会であった、とされる。
その潮流は、生命を誕生させ、撫育させる本能の
赴くままの無為自然の理想社会であった。
為に、名を残すことも、財を残すこともなく、
それは、愛に満ちた地上天国でもあった。
現代社会が、愚弄の限りを尽くして、
行く先の見えぬ今日を迎えたかの原因は明らかであった。
その解決は、ただ一つ「母性」に戻る以外にないであろう。
それは、単に男女対立する所の女ではなく、
それこそ、仏のような、観音のような
両性具有の陰陽統合された性に戻るべきではなかろうか。
それこそが大同社会であり、理想世界の未来像である。
今、この一歩、まほろばは、
この一歩を歩もうと踏み出した。
(山崎弁栄御上人筆 「観音菩薩図」)