統一体としての水

 ゼロから出発した私には、パラマグネティズムやゼロウオーターの知識があろうはずもなかった。また、世に問われる水の特異性や一機能性を水に求めていたわけでもなかった。最も始源的で全一的な水のイメージだけがあり、物と心が融合した未分化な「生命の水」を求めていた。

……水にとって、人が水をいかに清め汚し、捨て貯めようが、泰然としてその本質は変わらない。地球創生40億年前に発生した13・5立方kmの水量は未だ変わらないという。正に、仏説に説く不増不減・不垢不浄の世界なのだ。  

 蛇口をひねる一掬いの水道水も、かつてのマグマの海に降りしきる黒き雨でもあった。一滴の山頂の清水が滴々集まってせせらぎとなり河となり、大海に注がれる。そして蒸気して雲となり、雨となり、雪となり、又大地に戻る。自ら流した糞尿は、巡り巡って聖地の水と化しているだろう。またヒマラヤの雪解け水も巡って、我が家の一椀の汁ともなろう。海岸に足を浸す漣はガンジスで沐浴する祈りの水に連なり、あるいは古代文明の栄華に酔いしれたナイルの川瀬に通じ、あるいは揚子江の河口に、ダニューブの舟音にも連なっている。
 水は万物を一つとして観ている。水は一体なのだ。この一体感が命の全体であり、人類が一つである所以でもある。押し寄せる波は我々一人ひとり。しかし、その水は分けることなき一者。我々もまた一つの存在なのだ。
   
そして海水の一滴一滴が、宇宙のはるか彼方の星々一つ一つと引き合っている。潮汐の干満のように。ましてや、人間一人ひとりが宇宙と引き合わないわけがないではないか。体内の60〜70%が水で覆われている人間。人は月や陽や星と引き合いながら、押し合いながら呼吸をしている。
 


 男女の精血も元はといえば水である。人の誕生は水の再生である。地球は水の惑星といわれるが、そこに棲まう人間そのものが水であり、宇宙ではなかろうか。陰陽五行でも無から一気が動き万物生成の回転が始まる。その一気、北一に位置する水気こそ易数の兆、生命の源と東洋の智者は直感した。人は羊水より生れ、生物は海水より来たる。母なる水は万物の家郷なのだ。…………

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