もう一つの「倭詩」
1月 31st, 2015 at 11:32(2015年初場所千秋楽、白鳳土俵入り。新記録33回目の優勝)
小学生の頃、田舎に、若き日の大鵬関が中学校の相撲場に地方巡業でやって来た。
今も市の郷土史記念写真に、おばあちゃんと小さい私が、横に立って映っている。
それと、札幌の母の実家が大の相撲好きで、北海道出身の北ノ洋の後援会をしていた。
札幌場所には、おじさんに連れられて行ったり、いつも関取が実家を訪問したり、
恵庭の我が家にも若秩父関が来たりしていたのを思い出す。
戦後の娯楽が少なかった国民にとって、相撲の一勝一敗に一喜一憂していたものだった。
小学校入る前、鏡里、千代の山、大内山・・・・の活躍を、
ラジオに耳をそばだてて聞いていた。
そんなセピア色の相撲なんて、知る人も少なくなった。
それからTVが開局されて、栃若時代がしばらく続いた。
栃錦と白熱した贔屓の若乃花の対戦、
小学生ながら、神棚に祈っては、手に汗水握って応援した。
ところが、初代若乃花が引退した時から、急に相撲熱が褪めて、興味が失せたのだ。
長島が引退したとき、それ以来好きな野球にも、全く関心がなくなってしまった。
もうかれこれ50年も前になるだろうか。
それくらい、大相撲とは、随分縁が遠のいていた。
相撲王国、北海道。
大鵬、北の湖、千代の富士・・・・・
連峰のように聳え立っていたが、今は見る影も無い。
さらに、日本全土がモンゴル勢に席捲せられた。
相撲に、何の興味も無い今回、後藤翁からお声がかかった。
別段、相撲が取り立てて観たいとは思わなかった。
むしろ、「日韓友好海苔」販売の現場視察が目的だった。
ところが、両国蔵前に着くや街に漂う、その何とも言えない江戸情緒に、
昔の自分が、引っ張り出されたような気がした。
何か50年前の興奮が、胸のうちから滾るように覚えたのだ。
不思議だ。
何ともワクワクする自分に、むしろ自分自身驚いてしまった。
国技館の内戸を開くと、その観客の熱気と小さく見える相撲土俵が、
館内一体になって、溶け込んでいる様子に、ある懐かしさが甦ったのだ。
これが、日本!
(三役の四股で〆る)
熱心な相撲観戦者には、何を今更と思うだろうが、
こうも時を離れて、再び自分に再会するということは、人生めったに無い。
TVの小さな画面に収まっているのが相撲ではなかった。
大衆と一体になっている力士の一つの観劇がそこにあって、
うねりのような声援と興奮の波が、打っては返し襲ってくる。
まるで、一幕の歌舞伎を観ているかのようだった。
力士が一人で稽古し取り組みを為しているのではなく、
観客に押し出され、励まされ、慰められている
人情味が何とも言えなく心地よかった。
この舞台裏には、言葉では語り尽くせない人生劇場があろうが、
しかし、延々と連綿として続いて来た日本の国技が、
かようにして今尚続いてきたことに、敬意を表する。
若い連中も、伝統的なしきたりや様式を学び、
何とか一人前になるべく精進しているさまは、見ていて嬉しい。
呼び出しや行司、小さい時から鍛えられて一生を土俵と共に生きる。
力士ばかりではない。
また、横綱や幕内は一握りに過ぎない。
昔から、どれほどの子が入門して去ったことだろう。
この土俵には、笑いの数より悲しみの別れの涙の方が圧倒的に多いだろう。
この頂点のスターを支えるための底辺には、どれだけの人々がうごめき、
或いは食べている人々が多いことだろう。
世界の縮図でもある、この相撲界にも危機が何度か訪れたが、
それは野見宿禰(のみのすくね)神のご加護か、何とか営々として伝統行事を持ち応えてくれた。
戦後、経済成長で豊かになった家庭では、餓え渇するハングリーな子供が居なくなった。
どうしても、是が非でも、という切羽詰った生き方が国民全体から失われたのだろう。
国技として、力強い日本人の若者が、次々と輩出してくれることを願いたい。
鬢付け油の匂う相撲が、末永く続くことを祈らずには居られなかった。
(初場所所千秋楽、三横綱、大関の取り組み)