「目から鱗が落ちた松下幸之助のスケールの大きさ」
12月 13th, 2011 at 9:40
田中 宰
(松下電器産業元副社長
阪神高速道路前CEO兼会長)
『致知』2012年1月号
特集「生涯修業」より
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私が幸之助創業者と初めて直に接したのは昭和四十年。
創業者が山陰地方の販売店で構成する
「山陰ナショナル協栄会」にご出席されるため、
米子においでになった時だった。
山陰は社員の人手も少なく、
送り迎えも会場係もホテルでのお世話係も、
全部新入社員の私が担当することとなった。
私の人生で歴史的な出来事である。
前日入りした創業者は東光園というホテルに宿泊され、
その日の夕方は営業所長ご夫妻と販売店ご夫妻を招いて
一緒に食事をされることになった。
私は隣の部屋に控えていたが、
その宴会を取り仕切っていた仲居頭さんが、
会話の中継ぎの中でこんな話をされた。
「松下さんのような立派な会社の工場がこの地にあれば、
私も息子と水入らずで生活できたのですが……。
いつかぜひこの地にも工場をつくってください。
地元の皆はどれほど喜ぶことでしょう」
聞けば、女手一つで育ててこられたご子息は
地元に職がなく離れて暮らしているという。
数日後、創業者自ら山陰の出張所に電話が入った。
「米子で工場建設の土地を探すように」と。
後に分かったことだが、
当時様々な地方自治体の首長が本社を訪ねてきては
工場の誘致をしていた。
しかし基本的にお断りしていたようである。
それが仲居頭さんの一言で米子をはじめ、
四十八都道府県「一県一工場」の工場展開に繋がったのである。
この決断は当時、若い私には大きな疑問であった。
大阪の門真に工場を集中させたほうが絶対に効率的なのに、
なぜ地方に分散して非効率的なことをするのか。
しかし後に文献を見て、
創業者のスケールの大きさを目の当たりにするのであった。
「自社の目先の利益も大事だが、
雇用を生むことはそれ以上に大事である。
松下の電化製品を各地に普及させていこうとするならば、
各地域が栄えていないと、結果自分たちも栄えていかない」
この人、ムチャムチャスケールのでかい人だ。
目から鱗が落ちるような思いがした。