白菜と「無用の用」
11月 30th, 2020 at 3:12
20日、最後の味噌豆用マルチを剥がし、ハウス解体が完了。これで、大物事は終わり、こもごもした後片付けを残すのみ。
あとの大物は、白菜の収穫。
毎日、葉の締まり具合を、畑を一巡して回って次々と堅いのから先に、刈り取る。ほぼ固定種「松島新2号白菜」の正品は穫り入れ、今は「松島6号」。これが、デカい!!
写真の左が新2号の大き目、右が6号の大き目。子供と大人くらいの差。1玉10㎏あるかな。その日、25コンテナを雨の中の泥濘に足を取られながら必死に収穫。随分疲れるが、右脚の怪我も徐々に回復し筋力も付き、こんな重労働もこなせるようになった。ありがたい。これも、実に多くのボランティアさんに助けられて、本当にここまで来ることが出来ました。改めて、感謝申し上げます。
今朝は、昨日からの雪で、一面、白一色。
昼の雪解けで、一斉に総穫りが出来るかどうか、勝負の日である。堅い巻きだけで、更に25コンテナ、500㎏。後は雪の中で成長するのを待って、根雪になるまで収穫。残りは来春、「白菜菜花」として、相当数出せるだろう。
今年は、コロナ騒動一年で、年末の今、また3次襲来か、感染化急増が収まらない。家内の白菜スープで始まって、白菜ブームで終わるか。最後が白菜の締めと言うのも、喜べない。
この栄養価の最も少ない白菜が、最も病に効くというのも暗示的でさえある。
つまり、老子の言う「無用の用」だ。用を為さないようだけど、最も用を為す、というもの。車輪にしろ、茶碗にしろ、部屋にしろ、その空間が用を為している。
昔、一時「窓際族」という用(よう)無(む)(!)員(いん)のような定年真近な人が、実は社内で円滑化の大事な用を為している、と聞いたことがある。みんなの心の中で、その存在があることでホッとする、息抜きできる、というお役目があるというもの。「虚」の効用と言うべきか。
今年、亡くなられた李登輝台湾元総統は、「我是不是我的我」(私は私でない私)という座右の銘を遺されている。
数学者の岡潔先生は、「為さざる在るの人」と良く説かれておられた。
何も為さないで、存在する生き方をせよ、と。「為しても無欲なれば、人、之を為す」私心の無い行為が、最も人に影響を与える、というものだろうか。
「発酵仮面」「味覚人飛行物体」なる小泉先生は、「濃処の味わいは常に短く、淡中の趣は独り眞なり」と、味の極みを言及しておられるが、味わい深い。淡白な味付けが、料理の究極である、と申しているんですね。
白菜の淡味こそ、妙なのでしょう。
植え付けや草取り、追肥や管理に、多くの援農の方々の手を煩わせました。その為か、良く肥大してくれています。
漸く「切干大根」も出来上がり、それに気を良くして、「白
菜塩」を作るかもしれません。出来てからのお楽しみ。またまた、蘊蓄を長々と述べたいと思います(笑)。
ありがとうございました。