ハンディのある子供たちと生きて
7月 8th, 2012 at 15:28堀江悦子(からたち作業所代表)
『致知』2012年7月号
連載「致知随想」より
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長男の様子がどこかおかしいことに気づいたのは、
生後半年ほど経った時でした。
昼も夜もほとんど泣き叫んでばかりで、
おむつを替えても、おっぱいをあげても
泣きやむ気配はありません。
九か月目、気がつくと瞳に白い点ができ、
その面積は次第に広がって一歳を過ぎた頃、
ついに視力を失ってしまったのです。
「この子は生涯盲目の世界で生きることになります」
医師にそう告げられた時の衝撃、
頭の中が真っ白になる感覚は、
四十年以上経ったいまもありありと甦ってきます。
失明し自分のリズムが掴めない長男は、
やがて夜は眠らずに朝方から眠るという
昼夜逆転に陥りました。
茶の農家に嫁いだ私は昼間は家事や農作業に励み、
夜は家人に迷惑にならないよう、
泣き叫ぶ我が子をあやしながら
街灯一つない山道を歩くという毎日。
精神的にも肉体的にもヘトヘトに疲れ切っていました。
その頃、私はお腹に新しい命を宿していました。
二男は未熟児で生まれたものの、
心配していた病気の発症もなく順調に成育していきました。
私たち夫婦は二男が成長した時、
一人で長男の面倒を見るのは大変だという思いから、
もう一人産もうと話し合いました。
ところが、授かった三男もまた生後間もなく
目が見えていないことが分かったのです。
電光が目の奥まで届いているような
透き通った瞳に気づいた時は、
動くことすらできず、全身の力が抜けていきました。
三男はかろうじて片方の目が弱視にまで回復しましたが、
長男は全盲と自閉症の重複障碍と診断され、
成長するにつれて大声を上げ暴れ回るようになりました。
ふすまやガラスは破れ、障子はぐちゃぐちゃ。
二人の障碍児を抱えて私たちは生きていくだけで
精いっぱいでした。
何度本気で一家心中を考えたことでしょう。
「お母さんとお父さんが変。助けて」
という二男の訴えで駆けつけた義母に諭され、
ハッと我に返る、といったこともありました。
そういう私が、使われなくなった盲学校寄宿舎を借りて
「からたち共同作業所」(福岡県柳川市)という
重度障碍者のための作業所を立ち上げたのは平成二年。
盲学校を卒業した長男の社会参加を考えたのが発端ですが、
同じような境遇の方々が集まり五人の障碍児を
受け入れるところから活動はスタートしました。
ドサッと山のように業者から届けられる
ビニール製のポット苗容器を整える単純な仕事でも、
それが息子たちの生き甲斐になるのかと思うと、
それだけで感無量でした。
もちろん、それからも厳しい道のりは続きました。
最初の職員さんに僅か二十日で辞められた時は、
五人の障碍児と一日中向き合う大変さを思い知らされました。
私の負担が一気に増え、どうしてよいか分からず
声を上げて泣いたものです。
しかし、もう後には戻れません。
死ぬ思いでやればなんでもできると
自分に言い聞かせては心を切り替え、
前に進んでいきました。
この二十余年を振り返ると、
まさに山また山の毎日でしたが、最近ふと
「一主婦だった私が健常な家族に恵まれていたら、
ここまで数多くの人と出会い、支えられ、
絆の大切さを感じる人生を送れただろうか。
出会いは私の財産だな」
と思うことがあります。
試練の時は辛くても、それを乗り越えた時に、
何倍もの喜びがやってきます。
その最も大きなものは子供たちの成長を肌で感じ取る時です。
作業所を開いた当初、私は我が子以外の
四人の子供たちの心が掴めず、
どのように接してよいか分かりませんでした。
その中にM君という二十歳前の水頭症の子がいました。
脳内に髄液がたまる病気で、動くことも
言葉を満足に発することもできません。
ご家族や養護学校時代の先生方は
「M君は病気で意思表示ができないから」と
はっきりおっしゃっていました。
M君が作業所に来ると、いつも童謡が吹き込まれた
カセットテープを握らせていましたが、
ある日、テンポのよい演歌を流したところ、
握っていたテープを放り投げて体を揺すり始めたのです。
「あっ、M君は意思表示ができる」
直感的にそう確信しました。
私はM君は意思表示ができるという前提で
動きを観察していきました。
すると何気ない動作で自分がしてほしいこと、
嫌なことをはっきり示していると分かったのです。
他の子供たちにも同じ視点で向き合ってみました。
物を投げつける行為も殴りかかろうとする行為も、
それは怒りの感情ではなく意思表示の手段だと気づいた時は
「思いを伝えてくれてありがとう」という感謝の気持ちが
心の底から湧き上がるのを抑えられませんでした。
我われスタッフがそれに気づくことで、
子供たちは不思議なほど落ち着きを取り戻し、
重い知的障碍の子が盲目の子の茶碗を運んであげるなど、
いろいろな変化を遂げていったのです。
ハンディこそあれ、一人ひとり素晴らしい宝を持った仲間ばかり。
そういう子たちと巡り会えたことをいまでは本当に幸せに思います。
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このお話しから、
「しいのみ学園」の106歳現役の昇地三郎先生を思い浮かべます。
若いにも関わらず、こんな境遇でこんなにも頑張っていらっしゃる方が、
日本にはまだまだいらっしゃるんですね。
驚きと感動で一杯です。
みなさん、挫けず頑張りましょうね!!!