「『神聖喜劇』で問うたもの」
10月 10th, 2011 at 9:10
『致知』2011年10月号より
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万事に関して奥手の私だが、
こと文字を読むに関しては随分早かったと記憶している。
児童芸術雑誌『赤い鳥』に掲載された
北原白秋の詩を読んだのが始まりで、
中には振り仮名のない本も多く、
私はいくつもの読み得ぬ字句に出合った。
私の入った中学は幹部候補生の受験資格がある学校で、
日露戦争で将校を務めた大人たちが教鞭をとっていた。
ある時、教官は学校の生徒全員に、
日に焼けてくることを夏休みの宿題にした。
それからというもの、私は毎日のように
海へ行っては体を焦がした。
当時私は汽車通学をしていたが、
いつも隣駅から乗車してくる女学生がいて、
私はその女性に対し愛情を感じていた。
ところがその夏、彼女が胸を患ってしまったとかの理由で、
海岸沿いのサナトリウムに入ったという噂を耳にした。
「君が窓の灯火消えて海遠き夜の雲弾く稲妻の青さ」
これはサナトリウムにいる彼女を思い描きながら詠んだ歌だが、
この歌のとおり、夏も終わり頃になると晴天が少なくなり、
せっかく日焼けした私の体も元来色白だったせいか、
また元通りになってしまった。
夏休みが終わって学校へ出てみると、
私をはじめ、日に焼けていない者数名が
講堂の前に立たせられた。
私はその宿題を怠けたわけではなく、
むしろ人一倍努力したつもりだった。
しかし教官は我々を指差して
「こんな白い奴らはろくな者にはならん」と言う。
ちょうどその頃、私が影響を受けた作家に有島武郎がおり、
「現代日本文学全集」所収の『或る女』や
『惜しみなく愛は奪ふ』などの小説を好んで読んだ。
そしてその全集に掲出されていた織田正信の
「『永遠の叛逆者』の前奏曲は奏ではじめられた。
その途を阻むものは、焼きつくされるであらう。
生命まで燃焼しつくして――何処へ行く。
獨り行く者の跡を追ふものは誰か」
の一文が私の心を激しく刺した。
当時の私は「獨り行く者の跡を追ふものは、この俺だ」と
心中ひそかに思った。
そのようなことが相まって、胸の中には
徐々に反軍国的な気持ちが募っていったのである。
しかし、だからと言って私は軍隊に行くことを
拒否したわけでは決してない。
徴兵検査を受けるに当たり、多量の醤油を飲んで熱を出すだの、
有力者が軍医に工作し、甲種を乙種にしてもらった云々
という話もよく耳にしたが、私はそういう考えには甚だ否定的で、
恥ずべきことであると感じていた。
そんなやり口で徴兵そのものを忌避する姿勢は、
消極的反戦ではなく保身というものである。
もし反戦的な態度を示すのであれば、
軍隊へ行くという運命をまず受け入れて、
その中で反戦的な思想を遂行すべきではないか
という考えだった。
結局、私はこの三年九か月に及ぶ軍隊生活をもとに、
昭和三十年から『神聖喜劇』の執筆に取り組むことになった。
私が三十六歳の頃である。
当初はそこまでの長編になるとは思ってもみなかったが、
四百字詰め原稿用紙にして四千七百枚。
完成までに費やした歳月は実に二十五年にも及び、
評論家からは日本の戦後文学を代表する作品の一つ、
との評価も数多くいただいた。
『神聖喜劇』では、あの軍隊生活で味わった理不尽さとともに、
それらのものに、意志と能力の限りを尽くして戦っていこうとする
人間の姿を描き出そうと試みた。
だがこの間、生活費を工面するには相当難儀し、
妻子には随分と迷惑を掛けてしまった。
配属年数にかかわらず、軍隊生活は二度と
思い出したくないという戦友も少なからずいる。
しかし、自分にとってあの経験は、
非常に有益なものであったと感じている。
人生にはどのような否定的、絶望的な状況の中からも、
そこに何かしらプラスになるものを汲み取ってくる
という姿勢が大切なのではなかろうか。
世の中の見方はどうあろうとも、
そんなことに捉われず自分の信じた道を行く。
懸命に前進するという構えを私は崩したことがなかった。
葛飾北斎は
「七十五歳までの自分の仕事は習作である」と述べ、
私自身も人間はそのようにあらねばならないと
自らに言い聞かせてきた。
私は普段、色紙や揮毫を頼まれても滅多に書くことはないが、
十五年ほど前の正月に、ふと次の言葉を認めたことがある。
「此心、あながちに切なるもの、とげずと云(いう)ことなき也」。
『正法眼蔵随聞記』にある道元禅師の言である。
自分がこれをやるのだと強く思い込んでいさえすれば、
いつか必ずその思いは遂げられるということである。
私はいま齢九十二を迎えたが、長男の赤人が
運営するホームページで、新作の発表なども行っている。
いくつになろうとも、
「老いてはますます盛んなるべし」の気概で
これからも前進をしていきたい。