「天何をか言うや、四時行われ百物生ず」
12月 24th, 2012 at 10:20安岡 定子 (安岡活学塾 銀座・寺子屋こども論語塾専任講師)
『致知』2012年12月号
連載「子供に語り継ぎたい『論語』の言葉」より
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今回は、私が大好きな章句を取り上げたいと思います。
子曰わく、予(われ)言うこと無からんと欲す。
子貢曰わく、子如(も)し言わずんば、則ち少子何をか述べん。
子曰わく、天何をか言うや、
四時(しじ)行われ百物(ひゃくぶつ)生ず。
天何をか言うや。
孔子はある時、「私はもう何も語るまいと思う」とおっしゃいました。
これに対して弟子の子貢が
「先生がもし何もおっしゃらなければ、
私どもはどうして先生の教えを学び、
伝えることができるでしょうか」
と質問します。
すると孔子は
「天は私たちに何を言っているか考えてみなさい。
春夏秋冬の四季は巡っているし、
万物は自ら成長しているではないか。
天は私たちに何を言っているだろうか」
と応じるのです。
(略)
頭脳明晰で雄弁家の子貢は孔子を唯一の師と仰ぎ、
教えを聴き、それを分かりやすく噛み砕きながら
若い弟子たちに伝えていたことでしょう。
それだけに「私はもう何も語るまいと思う」という一言には
大いに驚き、困惑したに違いありません。
そういう子貢の心を既にお見通しだった孔子は
「自分が何かを語らなくても、
自然は変わることなく四季は巡ってくる。
天は何を言おうとしているのか考えてみなさい」
と投げ掛けたのだと思います。
二宮尊徳翁の道歌に
「音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は
かかざる経をくりかへしつつ」
とあるように、大自然は無言のまま私たちに
多くの教えを授けてくれています。
孔子もまた,優秀で頭でっかちな子貢に、
たとえ言葉はなくても見る目さえあれば
真理はいくらでも発見、吸収できることを伝えようとされたのです。
もう一つ、別の観点から捉えれば
「私をもっとよく観察してごらん」
という孔子のメッセージと受け取ることができます。
自分がどういう思いでこの言葉を発しているか、
こういう行動をとったのか、
優秀な子貢なら察することができるはずだよ、
という弟子の成長を願う孔子ならではの
深い思いやりだったのかもしれません。
自分の考えを熱く語る一方で、
弟子との間でこのような情緒的なやりとりを
さりげなく行っているところ。
これもまた孔子の魅力の一つです。