「石巻から甲子園へ届けた思い」
12月 31st, 2012 at 11:27┌───2012年、反響の大きかった記事ベスト3──────────┐
松本 嘉次 (宮城県石巻工業高等学校硬式野球部監督)
『致知』2012年7月号
致知随想より
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宣誓。東日本大震災から一年、日本は復興の真っ最中です。
被災をされた方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、
いまも当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、
悲しみに暮れている方がたくさんいます」
2012年春、21世紀枠で
初のセンバツ甲子園出場を果たした石巻工業。
主将の阿部翔人が行った選手宣誓は、
部員たちがこの1年間のいろいろな思いを白板に書き込み、
その言葉をまとめて作り上げたものである。
監督の私が最後に清書をした時には、
様々な思いが去来し、思わず目頭が熱くなった。
2011年3月11日、石巻市沿岸部を襲った巨大津波により、
我が校の校舎とグラウンドは1,7メートルの浸水をした。
5日間水は引かず、残ったのはヘドロと瓦礫の山。
野球部員は市民800人とともに校舎へ避難したが、
選手の7割は自宅に被害を受け、親族を亡くした者もいた。
当日私は水に浸かりながら周囲の人の救助などに当たった。
3日後、学校を出てからはその間、
昼夜を問わず復旧作業に当たる人の姿をたくさん目にした。
最初に考えたのは、子供がいつまでも
避難所や自宅にいたままだと、親たちも動きがとりづらい。
子供たちに生活のリズムをつくってやることで、
そのリズムが元に戻れば大人たちの生活も
元どおりになるだろうということだった。
そこで思いついた言葉が
「あきらめない街、石巻!! その力に俺たちはなる!!」
である。
選手を集めたのは被災後まもない22日のことだったが、
「野球やりたいか」と聞くと全員が力強く頷いた。
「じゃあ学校再開の4月21日には瓦礫一つない校舎にしよう」
と発破を掛け、皆一日も休むことなく
瓦礫やヘドロの片づけに当たった。
その間、他校の野球部員や近所の方々、
海外の救助隊なども駆けつけてくださり、
錆びついた金属バットなどに代わる道具の支援も
全国からいただいた。
おかげで被災から40日後には
無事練習を再開することができ、
野球ができることのありがたみを実感した。
私は宮城県内の高校で15年野球部長を務め、
3年前、当校の監督に就任したが、選手たちにはいつも
「当たり前が当たり前と思うな。
人が嫌がることを進んでできる人間になれ」
と言い続けてきた。
高校を卒業して世の中に出れば、
ほとんどの仕事は雑用と雑用との組み合わせで
成り立っていることが分かる。
その雑用を嫌がらずに自らやる癖をつけておけば、
社会に出ても必ず役に立つ人間になれるという
信念が私にはある。
ただ今回の震災で、我われは当たり前のことなど
何一つないことを思い知った。
野球はバットとボールとグローブさえあればできる
といわれるが、まず、やる場所がなければ
何も始めることはできないのだ。
1か月以上のブランクはあったものの、
夏の宮城県予選ではベスト16。
秋の県大会の最中には台風で付近の川が溢れ、
グラウンドが再び浸水する被害にも見舞われたが、
秋季宮城大会で準優勝し、初の東北大会に進出した。
センバツ甲子園の21世紀枠は、
各都道府県の秋季大会でベスト8入りした高校を対象に、
困難の克服やマナーの規範などが評価される出場枠だが、
そうした点を認めていただけたのは光栄なことだった。
ただ、被災地からの出場とあって世間からの注目は高く、
選手たちが背負っているものは非常に大きいと感じた。
そこで私は野球に対する指示や戦略は一切伝えず、
ただ「ありがとう」ということだけを考えろと言った。
甲子園に出られることに対しても、
野球のできる状況をつくってくださった
周りの人に対してもそう。
それ以外は何も考えなくてよいと。
大会では鹿児島の強豪・神村学園と当たり
初戦敗退したものの、一時は四点差をはね返すなど、
選手が一丸となり最後まで諦めないプレーを見せてくれた。
試合後には相手チームのスタンドからも
「また夏に戻ってこいよ」と大きな声援をいただき、
全国からいまも多くの励ましのメッセージが届いている。
これまでの指導経験を踏まえて私がつくづく感じるのは、
「動けば変わる」ということである。
被災後、石巻地区でグラウンドの掃除を始めたのは
我われが最初で、練習再開に踏み切ったのも当校が一番早かった。
こんな状態の中で本当に野球などしていて
よいのだろうかとも思ったが、保護者の方からも
「先生、早く練習をやってけろ。
子供たちの野球を見るのが一番の楽しみだったから」
と声を掛けていただき、再開させた。
するとそれまで自粛していた周りの高校も、
挙って練習を始めるようになったのである。
今回の被災では本当に多くの方々にお世話になった。
それに対する感謝の気持ちを
なんらかの形でお返しするとともに、
これからの世の中をつくる担い手を
生活指導を通して育てていけたらと考えている。
なお、冒頭に紹介した選手宣誓は次のように続く。
「人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは
苦しくて辛いことです。
しかし、日本が一つになり、
その苦難を乗り越えることができれば、
その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。
だからこそ、日本中に届けます。
感動、勇気、そして笑顔を。
見せましょう、日本の底力、絆を――」。
まだ10代の若者たちが、それぞれの悲しみを胸に秘め、
日本全国へ届けた渾身のメッセージだった。