「知られざる偉人・天野清三郎」
3月 6th, 2013 at 9:56 『致知』2012年11月号
特集「総リード」より
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天野清三郎は十五歳で松下村塾に入塾した。
四つ年上の先輩に高杉晋作がいた。
清三郎は晋作とよく行動を共にした。
だが、清三郎は劣等感を覚えるようになる。
晋作の機略縦横、あらゆる事態に的確に対処していく姿に、
とても真似ができないと思い始めたのである。
では、自分は何をもって世に立っていけばいいのか。
清三郎の胸に刻まれているものがあった。
「黒船を打ち負かすような
軍艦を造らなければ日本は守れない」
という松陰の言葉である。
「そうだ、自分は手先が器用だ。
船造りになって日本を守ろう」
真の決意は行動を生む。
二十四歳で脱藩しイギリスに密航、
グラスゴー造船所で働くのである。
そのうち、船造りの輪郭が呑み込めてくると、
数学や物理学の知識が不可欠であることが分かってくる。
彼は働きながら夜間学校に通い、三年間で卒業する。
当時の彼の語学力を思えば、
その努力の凄まじさは想像を超えるものがある。
しかし、三年の学びではまだおぼつかない。
さらに三年の延長を願い出るが、受け入れられない。
そこで今度はアメリカに渡り、
やはり造船所で働きながら夜間学校で学ぶのだ。
ここも三年で卒業する。
彼が帰国したのは明治七(一八七四)年。
三十一歳だった。
清三郎は長崎造船所の初代所長になり、
日本の造船業の礎となった。
一念、まさに道を拓いた典型の人である。
Posted by mahoroba,
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