会いたい・・・・・
3月 11th, 2013 at 13:17
今日は、3・11。
もう2年の歳月が流れた。
だが、流れていないものがある。
流れようにも流れない、止まろうにも止まれない。
それは、消えていった家族・・・・・妻は、むすめは、むすこは、父・母は・・・・・・・
呼べども答えず、仰ぎ見るもあらわれず・・・・・。
一人ぽっち、取り残された若き父。
どうしようもない空しさ、どうしようもない哀しみ・・・・・。
2年はその穴埋めにはならず、むしろその穴は深く深く沈んでいった。
できれば、自分もこの穴に入れば、どんなにか楽だろう・・・・・。
だが、そこに踏みとどまらせる何かがあった。
あぁ、これは居なければならなかったのか。
何かと繋がるために。
あまりの悲しみと嘆きのために、老いた父母はこの2年で急にふけてしまった。
鏡で自分の顔を映せば、もう笑いはとうに消えてしまって、憂いの皺だけが増えてしまった。
家も、生活も、未だに何一つとしてたっていなかった。
荒野に一つ、風に吹かれるままになびいているススキのような自分があった。
この枯れススキの味も素っ気も無い存在。
だが、それでも立っている。
私は、それでも立たねばならなかった。
沸き立つ入道雲にも、降りしきる秋雨にも、幾たびも逢わねばならぬであろう。
時という杭を、これからも1本1本打ち続けて、私の生をこの地に刻み付けねばならないのだろう。
この果てに答えがあるかないかは分からない。
しかし、私は亡き家族の影とともに、この東北の地に、生きるしかないのだ。
訶子
3月 12th, 2013 at 2:36 PM
まいどです。
3月11日。東北震災から丁度2年経過し、今月に入ってからは特にTV、新聞は震災と原発の現状を伝えるニュースが多かったですが、一様に被災された方からは復興のスピードが遅いと言うのが東北の人々の悩み、苦しみだったように思います。
また伝えられていない現地の姿が多くあると思うと同じ国の民としては心が痛む、何か自分の仕事柄出来る事はないのか?という疑問ばかりです。
ただやはりいくら思っても私は一個人な訳でしてせいぜい出来て募金やボランティア、やはり大きな助けや復興となると国が動かないとあかん。
そんな気持ちの中TVでは1928年の関東大震災の時に復興大臣になった後藤新平の業績が絶賛されていていました。
まず後藤新平は「復旧でなく、復興する」と言って指示、命令したそうです。
復旧は元の姿に戻すこと、復興は元の姿に + 新しい時代に求められる未来を創造追加すること。
例えば、いざという時の逃げ道に、都内に560か所も橋を増設したり、小学校を作る時は、耐震性はもちろんですが、西洋の新しい建築要素を取り入れた。
理由は、これから育つ子供たちが未来に向かって夢を持って勉強できる環境をつくるため。
今から80年以上前の時代の政治家はまさに今を生きる私達の事を思って復興を成し遂げてくれました。
彼は復興の完成を見ることなく1929年に亡くなりますが、その意思はその周りの人々に注がれ第二次世界を超えて、今の日本の礎の一つを作ったのだと思うと胸が熱くなりました。
今を生きる政治家を筆頭とする我々大人達は復興を遂げた先代の人たちより大きな気持ちをもって精進し、計画性をもって今の時代にあったスピード感で復興が成し遂げることに微力ながら努めていきたいと思います。