「のれんに咲顔(えがお)さかせたい」
4月 7th, 2013 at 9:28森 裕子(森からし蓮根17代目女将) 『致知』2013年5月号 致知随想より └─────────────────────────────────┘ いまから五十年ほど前のこと。 降り出した雨の中、慌てて道を渡ろうとしたことが すべての始まりでした。 当時十八歳だった私は、後に主人となる男性の車に 撥ねられてしまったのです。 幸い打撲程度で済みましたが、 彼は何度も見舞いに来てくれました。 驚いたことには、そのご両親まで 「これも何かの縁だ」と私のことを気に入ってくださり、 ぜひうちの嫁にと勧められるのです。 私はまだお嫁に行く気はありませんでしたが、 家の事情で上の学校に上がれなかった私に 「そぎゃん勉強がしたけりゃ、うちへ来てから学校へ行ったらよか」 というご両親の計らいがあり、 私はその言葉を百%信用して嫁ぐことに決めました。 嫁ぎ先の「森からし蓮根」の歴史は 寛永九(一六三二)年に遡ります。 先祖の平五郎は賄い方として熊本城に出入りし、 病弱だった藩主・細川忠利公のための健康食として、 からし蓮根を考案しました。 忠利公は大層喜ばれ、褒美として脇差し一振り、 小判十枚、苗字帯刀を許したといいます。 以来からし蓮根はお殿様の専用食として門外不出、 一子相伝で代々受け継がれてきたのです。 そして維新後の明治十年から現在の城下町に 店を構えるようになりました。 しかしいざ家に入ると、結婚前はあれほど優しかった主人が 「そぎゃんこつも分からんとか、バカが!」と 容赦なく私を怒鳴りつけてきます。 仕事も万事見て覚えろというやり方で、起床は午前三時。 毎日何百本もの蓮根を茹でたり揚げたりし、 昼からは店頭にも立たなければなりません。 義父母が猶予期間を与えず私に結婚を即決させたのも、 世の中を下手に見させまいとする判断だったのでしょう。 何より辛かったのは四十四年も続いた義母との、 嫁姑の確執です。
Posted by mahoroba,
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