「危機管理」
9月 16th, 2011 at 10:15(初代内閣官房内閣安全保障室長)──────────────────────────────────
(政府は)やはり安全保障会議設置法を早急に適用すべきです。
これによって各省庁が縦割りでバラバラにやっていた取り組みが
内閣に集中できるんですよ。
僕は内閣安全保障室長在任中の一九八六年十一月に起きた
大島三原山の噴火でこの法律を使ったんです。
噴火の後、最初は国土庁に十九省庁を集めて
災害対策会議が始まりました。
災害の名称をどうするかとか、
日付を元号にするか西暦にするかとか、
そんな会議を延々とやっているんです。
地元の町に溶岩が迫る様子をNHKが生放送していて、
一万三千人が大爆発で死亡するかもしれないという時にですよ。
そこで僕は内閣官房副長官の藤森昭一さんと一緒に
クーデターを起こしました。
藤森さんが中曾根康弘さんに
「伴走いたしましょう。総理」と進言したんです。
伴走というのは国土庁の災害対策会議とは別に
安全保障会議設置法による安全保障会議を
立ち上げるという意味です。
国土庁ではとても手に負えない事態に備えて、
後藤田正晴官房長官の総指揮で
別の動きを始めることを決めたわけですね。
ところが、後藤田さんは
「安保会議設置法もまだできたばかりで
難しい局面があるかもしれないけれども、
佐々君、君やれ」と。
中曾根さんも
「全責任を俺が負うから、おまえ指揮しろ」と言うんですよ。
僕自身には何の権限もありませんが、
総理の命令ということであればやむを得ません。
指揮を執らせていただきました。
すぐに都知事の鈴木俊一さんに
海上自衛隊出動要請を促しました。
さらに島民を避難させるのに必要な
民間のフェリーなども含め約四十隻を編成し、
南極に行く途中の観測船「しらせ」まで
現地に向かわせたんです。
一万二千トンの「しらせ」が救援に来るわけでしょう。
島民は、その姿を見ただけで安心しましてね。
国土庁の災害対策会議が終わった午後十一時四十五分頃、
僕たちはすでに島民に避難指示を出していました。
それで午前四時までには全島民一万人と観光客三千人を
全員船に乗せました。
その頃には東京の公立学校などを確保し
毛布や握り飯の準備が進められていた。
これが危機管理というものです。
『致知』2011年6月号
佐々淳行氏と渡部昇一氏の対談記事より