「特攻の母・鳥濱トメが遺した言葉」
9月 11th, 2013 at 11:11鳥濱 初代(富屋旅館三代目女将) 『致知』2013年10月号 特集「一言よく人を生かす」より http://www.chichi.co.jp/monthly/201310_pickup.html#pick2 鳥濱トメが富屋旅館を開業したのは昭和二十七年。 戦後、特攻隊員のご遺族や生き残られた方々が 知覧を訪れた時、泊まるところがないと困るだろうと、 隊員さんたちが憩いの場としていた離れを買い取り、 旅館にしたのです。 「ここは、生きれども生きられなかった人たちが 訪れていた場所。 何かを感じ、自分が明日生きるという力に変えてほしい」 トメはそう願い、旅館業の傍ら、 平和の語り部として、この離れで隊員さんとの エピソードなどを語っていました。 ここではその一部をご紹介したいと思います。 * * 光山文博さんは厳しい訓練が続く中、 休みになると必ず富屋食堂を訪れていました。 しかし、隊員とは誰とも話さず、大人しくしている。 なんでこの子だけ独りぼっちなのだろうか。 トメは心配していました。 するとある日、光山さんはトメにこう告げたのです。 「僕、実は朝鮮人なんだ」 この方の母親は戦時中に亡くなり、 父親から日本男児として本望を遂げよと教育されたそうです。 「明日出撃なんだ。小母ちゃんだけだったよ、 朝鮮人の僕に分け隔てなく接してくれたのは。 お別れに僕の国の歌を歌っていいかな」 そう言って光山さんは帽子を深々と被り、 トメと共に祖国の歌『アリラン』を大声で涙ながらに歌いました。 「小母ちゃん、ありがとう。 みんなと一緒に出撃していけるなんて、 こんなに嬉しいことはないよ」 そう言い残して、飛び立っていったのが光山文博さん、 二十四歳なのです。 もう一人は、十九歳の中島豊蔵さん。 中島さんは右手を骨折していたため、 なかなか出撃の許可が下りませんでした。 しかし、いま行かなければ日本は負けてしまう。 その並々ならぬ思いで司令部に掛け合い、 ついに許可が出たのです。 出撃前夜、トメは骨折で長くお風呂に入れなかった 中島さんのために、せめて最後にこの子の背中を流そうと、 お風呂に入れてあげました。 ああ、この子ももういなくなるのか……。 そう思うと、トメの目に涙が溢れました。 しかし、涙を見せてしまうと、 中島さんの決意を鈍らせてしまう。 心を掻き乱してしまう。 トメは涙を堪えるため、とっさに身をかがめました。 「小母さん、どうしたんですか?」 「いや、お腹が痛くなって……」 そう誤魔化すと、中島さんは、 「それなら、僕たちを見送らなくていいですよ。 小母さんは自分の養生をなさってください」 明日飛び立つ自分の身よりも、 とっさについたトメの嘘にまで優しい心をかけてくれる。 そんな中島さんは翌朝、折れた右腕を 自転車のチューブで操縦桿に括りつけ出撃していったのです。 * * 特攻平和記念館などに飾られている 十代後半から二十代前半の彼らの顔写真を拝見すると、 実に立派で、清々しく輝いた眼をしていらっしゃる。 それはやはり、彼らの中にぶれない軸が 一本通っていたからなのだと思います。 トメは平和の語り部として語る時、 いつもこう言っていました。 「私は多くの命を見送った。 引き留めることも、慰めることもできなくて、 ただただあの子らの魂の平安を願うことしかできなかった。 だから、生きていってほしい。命が大切だ」 されど、書き残した物の中には 「善きことのみを念ぜよ。 必ず善きことくる。 命よりも大切なものがある。 それは徳を貫くこと」 とも記されています。 この言葉を見るにつけ、後の世の幸福を願って 命を賭した隊員さんたちの姿が思い起こされてなりません。
Posted by mahoroba,
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