●スーダラ節
「どーこの誰かは、知ーらないけれど、
だーれもが、みんな知っている・・・・・」
『月光仮面』のテーマ音楽が鳴ると、
小学生2,3年の当時、
テレビにかじりついた胸の高鳴りの、
同じように迫ってくるものがもう一つあった。
「わかちゃいるけど、やめられねえ・・
ア、ホーレ、スイスイ、スイダララッタ、
スラスラスイスイスイ・・・・」
歌詞の意味も知らずに、
腕を振り、足を踏み、
高度成長期の子供時代を送った中年も多いはずだ。
あの『スーダラ節』の無責任の大人が、
責任の所在も知らない子供の心を
つかんで今尚離さないでいた。
どうして、あのバカバカしい笑いに
大人も子供も引き込まれたのだろうか。
今なお、先日逝かれた植木等さんを想うと
体が緩み、心が開かれるから不思議だ。
この人徳は、単に軽薄さから来るものではなく、
実は彼の出生の由来から来たものだった。
三重の浄土真宗のお寺の子として生まれ、
そのお父さんが、生一本で、反骨の人だった。
戦時中、戦争反対で逮捕されたり、
部落解放で人間平等の運動に挺したり、
それは生半可な仏教徒ではなかった。
植木さんが、『スーダラ節』の依頼があった時、
「人生が変わるかもしれない」と、父に相談したら、
「それは、親鸞聖人の精神と同じだ。」
と諭され、反対されるどころか、勧められたという。
『善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや』
「善人でさえ、極楽浄土に往けるのに、
それがどうして悪人が往けない事があろうか。
いや、絶対にない」と、いう信念。
わかっちゃいるけどやめられない、我ら愚かな凡夫。
それゆえに、救われるのだ。
若い時は、何とご都合主義的教義かな、
と思ったものだ。
しかし、馬齢を重ね、さらに重ねて、
どうにもならない不甲斐ない自分を思う時、
どうしょうもない世の中を見た時。
それでも、四季は巡り、
桜は咲き、稲は実り、
月は清けく、海はたゆたい、
何事もなく又 朝を迎える。
救うも、救われるもない、
塵一つの我が身を思う時
何に悩み、
何に憂いているのか。
『そのうち、なんとか、な〜〜るだろ〜う・・・・』
あの植木さんの
底抜けの笑いに癒された日本人は
突き抜けた向こうに、
浄土を見ていたのではなかろうか。
高僧の説法より、
知識人の講座より、
一笑にして、人を惹き付けた
彼は、天性の悟りの人だったように想う。
活ける菩薩さま。
何としても、あの懐かしさは、
一塵の穢れもない
澄み切った月光を映す
池の水面のようだった。
『人生はなるようにしか成らない』
何を悩むところがあろうか。
スイスイといけばよい。
そう、人生は
スイスイ、スーダララッタなのだ。