まほろばblog

Archive for the ‘未分類’ Category

まほろば自然農園、雪の中の収穫

水曜日, 11月 26th, 2014

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(取材:編集部 島田 浩)

 

強い冬型の前線が発達した11月中旬。札幌も例年にない位、雪が積もりました。

あわててスノータイヤに替えた方も多く、街角ではスリップ事故も多発。いよいよ冬将軍の到来といった感じです。

 

そんな中、まほろば農園には、まだまだたくさんの野菜が、降りしきる雪の中に眠ったままに。

およそ30cm前後も積もった雪がなんとか解けて、ふたたび収穫できる日を待っていました。

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ようやく週が開けて気温も緩み、雪が解けはじめました。

再び収穫の始まっていた11月21日。晴れ間が差した頃合いを見て撮影に出かけました。

平地はすっかり解けた雪でしたが、標高の高い山の中にある農園では、まだ一面真っ白。

そんな中、スタッフが最後の収穫に精を出していました。

 

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雪の中から大根を掘り出し、袋詰め、そして、そりに乗せて保管場所まで運びます。

雪の下に貯蔵し、越冬大根として年末にかけて出荷していきます。

 

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日当たりの良い第五農場では、農場長の宮下洋子自ら、カブと白菜の収穫中。

まだまだ畑にはたくさんのお宝が残されています。

強いシバレが来る前にできるだけ収穫しておきたいところ。

 

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さらに上の畑には半結球の白菜がこんなに。

半結球とはいえ、無農薬で手間隙かけた貴重な白菜。中がやわらかいのでサラダもおススメとの事。

 

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宮下からのコメントも入った動画をアップしましたので、ぜひご覧下さい。

 

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寒い中収穫したスタッフの、熱いハートが込められたまほろば農園の野菜たちです。

 

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ぜひ、じっくり味わって下さいませ。

 

まんまる新聞に、イヴェント

水曜日, 10月 1st, 2014

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和食と天然うなぎ

水曜日, 7月 16th, 2014

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4日(金)に、駅前の佐藤水産で小泉武夫先生の講演会がありました。

それに先立つこと昼に、先生のごひいきのウナギやさんへ、仲間内で一緒に。

北区の「札幌うなぎや」さん。

(北海道札幌市北区北27条西16丁目4−10  011-726-0355)
珍しい「天然うなぎ」を扱っている。
まほろば扱いの「共水うなぎ」も扱っているご縁で。
夜の講話のテーマは「和食」。
世界食文化遺産に選ばれ、その真髄を6項目にわたって。
大変貴重なよいお話でした。
何時か、それを記したいと思います。
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「お母さん」の言葉の由来とは?

土曜日, 3月 8th, 2014

境野勝悟(東洋思想家)

※『日本のこころの教育』より

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僕が小学校の一年のときのある日、
「ただいま」って家に帰ると、
お母さんがいないときがありました。

お父さんに、「お母さんどうしたの?」と聞くと、
「稲刈りで実家へ手伝いに行ったよ」と言う。

そして、

「きょうはお母さんがいないから、
おれが温かいうどんをつくってやる」

と言って、親父がうどんをつくってくれました。

ところが、温かいうどんのはずなのに、
お父さんのつくったうどんはなぜか冷やっこいんです。

一方、「ただいま」と家に帰って
お母さんがいるときは僕はいつでも
「お母さん、何かないの?」と聞きました。

すると、母は

「おまえは人の顔さえ見れば食い物のことばっかり言って、
食いしん坊だね。そこに、ほら、芋があるよ」

って言う。

そういうときは決まって、
きのうふかしたさつま芋が
目ざるの中に入っていました。

かかっているふきんを取ると、
芋はいつもひゃーッと冷たいんです。

だけれども、お母さんのそばで食う芋は
不思議に温かかった。

これは、もしかすると
女性には理解できないかもしれないけれども、
男性にはわかってもらえると思います。

お母さんが家にいると
黙っていても明るいのです。
あたたかいのです。

それで、わたくしたち男は自分の妻に対して、
「日身(カミ)」に「さん」をつけて
「日身(カミ))さん」と言ったんです。

丁寧なところでは、これに「お」をつけて
「お日身(カミ)さん」といったんですよ。

何でしょうか。

この「日身(カミ)」という意味は?

「カ」は古い言葉では「カカ」といいました。
もっと古い言葉では「カアカア」といった。
さらに古い言葉では「カッカッ」といったんです。

「カカ」「カアカア」「カッカッ」
これが「カ」となるんですね。

「ミ」というのは、
わたくしたちの身体という意味です。

ですから、「日身(カミ)」とは、
わたくしたちの身体は
「カカ」の身体である、
「カアカア」の身体である、
「カッカッ」の身体であるという意味なんです。

では、「カカ」「カアカア」「カッカッ」という音は、
古代では一体何を意味したのでしょうか。

「カッカッ」というのは、
太陽が燃えている様子を表す擬態語でした。

「カッカッ」とは、実は太陽のことを指したのですね。
「カアカア」「カカ」という音も同様です。

つまり、わたくしたちの体、わたくしたちの命は
太陽の命の身体であるということを、
「日身(カミ)」(太陽の身体)と言ったんです。

「カミ」の「カ」に「日」という漢字が
当てられているのを見れば、
「カ」が太陽のことを意味している
ということがわかるでしょう。

「日身(カミ)」とは、
太陽の体、太陽の身体という意味だったのです。

お母さんはいつも明るくて、あたたかくて、
しかも朝、昼、晩、と食事をつくってくださって、
わたくしたちの生命を育ててくださいます。
わたくしたちの身体を産んでくださいます。

母親というのはわたくしたちを産み、
その上私たちを育ててくれます。

母親は太陽さんのような恵みの力によって
わたくしたちを世話してくれる。

母親はまさに太陽さんそのものだということから、
母親のことをむかしは
「お日身(カミ)さん」といったのです。

道新「GM大豆問題・・・・」まほろばの事々

土曜日, 2月 1st, 2014

28日の道新「食の大地」欄に,

遺伝子組み換えなしの「非GM大豆」による納豆・豆腐生産の状況を取材している。

その中で、まほろばも取り上げられている。

 

大豆新聞

 

 

米国では、GM遺伝子組み換え大豆の生産量が年毎に増加して、

さらに中国、ロシア、東南アジアの需要の伸びと、米国の旱魃で、

非GM大豆の値段の高騰は続き、今約2割高になっている。

それに伴い、製品も5~10%値上がり、また業者は26%も減少。

それで、道産物が注目されている。

その全体的な流れの中で、まほろばは30年ほど前から、

士別の澤田さんと手を組んで、オリジナル豆腐を作って提供している。

また、池田さんの有機大豆も使って納豆を。

さらに、これらの集大成が、醤油であり、味噌でもある。

今後、GM大豆が世界を席捲したら、国内の状況がどう変化するか、心配でもある。

 

さらに隣の欄に「ホタテの貝殻」で作った歯磨き粉『シェルピカ』が、

偶然に掲載されていた。

これも、道産物として、大切な商品でもある。

安保徹先生講演会

水曜日, 1月 15th, 2014

来る3月9日に、市民ホールで免疫学で著名な

「安保徹先生」講演会が開かれます。

主催は、知人の仙石さんです。

希望者は下記に、お申し込みください。

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「人生は一に努力、二に努力、三に努力、全部努力」

日曜日, 1月 5th, 2014

福島孝徳(デューク大学教授)

※『致知』2014年2月号
特集「一意専心」より

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※対談のお相手は、福島氏の盟友であり、
世界最先端の医療機器を導入し、
福島・宮城・青森・東京・神奈川を基盤に
16もの病院を経営する
南東北グループ総長・渡邉一夫氏です。

福島 私は若い時からとにかく、
日本一、世界一になりたかった。

そのためには普通のことをやっていたらダメなんで、
「人の二倍働く」「人の三倍努力する」
という方針でやってきました。
普通の人が寝ている間、休んでいる間に差をつけると。

そういう姿勢で若い頃から腕を磨いてきたんですけど、
いま71歳になってみると、人生は短い。
私に残された時間はもう少ない。
だから、一刻も無駄にできないんです。

渡邉 いまは年間どのくらい手術をされているんですか?

福島 600回ですね。
一番の盛りは三井記念病院にいた43歳の時で、
900回はやっていました。

私は人間の年齢には暦の上の年齢と、
生理学的な年齢の二つがあると思っているんです。

私が本当に感心するのは、
経団連の会長をされていた土光敏夫さん。
80を過ぎても矍鑠(かくしゃく)としていましたよね。
素晴らしい人でした。

で、いま世界でも、
例えばモスクワの国立ブルデンコ脳神経センター
というところは脳外科だけで2000床もあるんですが、
ここの総帥がコノバロフという人で
83歳のいまも毎日手術をしている。

渡邉 ああ、そうでしたか。それは凄い。

福島 それからローマ大学のカントーレという教授、
彼もいま83ですけど、手術をしています。

私自身、手術に関しては
いまだにマスターチャンピオンですよ。
目と手は全然若い人に負けない。
だからあと10年は大丈夫じゃないかなと思っています。

これにはやっぱり天性の才能が
少なからずあると思うんですけど、
それ以上に膨大な数をやっています。

だから、私はいつも言うんですけどね、
人生は一に努力、二に努力、三に努力、全部努力なんですよ。
他の人が信じられないような努力をして、経験を積む。

それから本当はいいコーチがいなきゃいけない。
オリンピック選手を見ていても、
皆が類い稀な技量を備えている中で
どこに差が生まれるか。
コーチですよ。

渡邉 なるほど。でも、福島先生にコーチはいないでしょう?

福島 いや、私は若い頃、ちょっと暇があれば、
世界中の名医を訪ねて回りましたから。

いまでもそうです。毎日勉強しています。
あの天才ミケランジェロが残した
有名な言葉が「ラーニングアゲイン」。
ルネサンス期に世界一の絵と彫刻を生み出していても、
いまだに日に日に勉強しています、と言った。

だから日に日に勉強して、日に日に努力して、
渡邉先生も同じだと思うんだけど、毎日仕事しています。
休んでいられないですよ。

私は土日と祭日も一切休まない。
夏休み、冬休み、一切取らない。
毎日働くのが趣味なんです。

* * *

福島氏はいかにして世界一のドクターとなったのか。
その不遇の修業時代とは。
大切にしている信条とは。

「一年を通して働きづめの両陛下」

月曜日, 12月 23rd, 2013

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渡邉 允(前侍従長)

※『致知』2013年7月号
特集「歩歩是道場」より

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両陛下は毎朝6時にはお目覚めになり、
お二方で吹上御苑の森の中を散歩なさっています。
驚くべきことに、ご病気の時を除いて、
この6時起床を変えられたことはありません。

普通はその日の予定に合わせて起床時間を決めたり、
休みの日は遅くまで寝ていたくなるものでしょう。

しかし、1年を通じてその時間を変えない
という規律を自らに課しておられる。
そこに私は、陛下の一貫した
強靭な意志力を垣間見る思いがします。

私が毎朝9時に出勤すると、
両陛下は既に書斎に入られ、
いつもお仕事をされていました。

両陛下の1日は
本当にお忙しいものです。

例えば、まず午前中、
宮中三殿で宮中祭祀を執り行われた後、
午後は宮殿に行かれて社会福祉関係者の拝謁や
認証官任命式(国務大臣その他の官吏を任命し、
辞令を交付する儀式)がある。

その後、新しく着任した
外国大使夫妻のためにお茶会をなさり、
夜は御所で、近く訪問予定の国の歴史について
学者の話をお聴きになる。

通常、夜10時半が御格子(陛下が御寝になること)
となっていますが、
たいてい両陛下はそれ以後も、
翌日の行事のための資料や
式典で読まれるおことばの原稿に目を通したり、
外国の国王王妃にお手紙を書かれたりされているようです。

このように朝から晩まで
次々と性質の異なるお仕事に取り組まれており、
それが1年を通して続くことになります。

両陛下がお出ましになる大きな行事や式典は、
休日や祝日に行われることが多いため、
5日働いて2日休むという生活のリズムもないのです。

そこまでしてご公務に邁進される陛下の根底にあるもの――
それは「国民のために」という思いにほかなりません。

陛下のその思いが一つの形として
具現化される場が「宮中祭祀」です。
宮中祭祀とは、
陛下が国家国民の安寧と繁栄を
お祈りになる儀式のこと。

陛下の1年は、元旦朝5時半から
執り行われる「四方拝」で始まります。

外は真っ暗、しんしんと冷えている中、
白い装束を身にまとい、
神嘉殿の前庭に敷かれた畳の上に正座され、
伊勢神宮をはじめ四方の神々に拝礼される。

その後、宮中三殿に移られ、
「歳旦祭」を執り行われます。
宮中三殿とは賢所、皇霊殿、神殿の総称で、
それぞれ天照大神、歴代天皇と皇族の御霊、
八百万の神々が祀られています。
そこで五穀豊穣や国民の幸福をお祈りになるのです。

陛下が執り行われる宮中祭祀は
年間20回程度ありますが、
その中で最も重要とされる祭祀が
11月23日の「新嘗祭」です。

その年に収穫された農産物や海産物を
神々にお供えになり、
神恩を感謝された後、
陛下自らもお召し上がりになる。

夜6時から8時までと
夜11時から深夜1時までの2回、
計4時間にわたって執り行われ、
その間、陛下はずっと正座で儀式に臨まれます。

我われも陛下がいらっしゃるお部屋の外側で、
同じように2時間正座を続けるのですが、
これは慣れている人でも難儀なことです。

私は毎年夏を過ぎると
正座の練習を始めていました。

ある時、陛下のもとに伺うと、
居間で正座をしながら
テレビをご覧になっていたことがありました。

やはり陛下も練習をなさっているのかと思ったのですが、
後からお聞きしてみると、陛下はこうおっしゃったのです。

「足が痺れるとか痛いと思うことは一種の雑念であって、
神様と向き合っている時に雑念が入るのはよくない。
澄んだ心で神様にお祈りするために、
普段から正座で過ごしている」

その取り組み方一つとっても、
専ら肉体的な苦痛を避けたいと思っていた私とは
まるで次元が違うと感服した瞬間でした。

元旦の「四方拝」「歳旦祭」に始まり、
春分の日の「春季皇霊祭」、
秋分の日の「秋季皇霊祭」、
天皇誕生日の「天長祭」など、
宮中祭祀の多くは国民の祝日に行われています。

つまり、私たちが休んでいる時に、
陛下は国民の幸福をお祈りされているのです。
そのことを私たちは忘れてはなりません。

 

「海外から逆輸入されるメイドイン山形」

金曜日, 12月 20th, 2013

佐藤正樹(佐藤繊維社長)

※『致知』2014年1月号
特集「君子、時中す」より

 

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当社はもともと山形で
糸作りとニット製造をやっておりまして、
曾祖父が羊を飼ってウールの紡績業を
始めたのが最初です。

祖父の時代に工業化を進め、
父がニット製造を始めました。
私は4代目として後を継いだのですが、
ちょうどその頃から日本の繊維業界は
急激な勢いで衰退し始めたんです。

それまで私は東京のアパレル会社に勤務していましたが、
帰郷していきなり大変な場面に遭遇したわけです。

ニットという分野は繊維製品の中でも加工賃比率が高いので、
不況となると人件費の安い海外に
生産拠点を移すケースが多いんです。

私たちもこのまま日本で製造を続けるか、
海外に生産拠点を持って行くか、
いろいろと悩みましたが、
やはり国内の製造は守らなくてはいけないというので、
そのまま製造を続けることを決めました。

(中略)

山形に戻って4、5年経った頃でしょうか、
私はある糸に魅せられました。
これはどこで作ったのだろうと問い合わせてみたら、
取り引きのあったイタリアの工場の糸だと。

自分のところにしかないオリジナルの糸を作る上で
ヒントを得られるのではないかと思った私は、
イタリアに飛びました。

ちょうど世界の糸の最高峰と呼ばれる
ピッティ・フィラーティー展が開かれていたので、
それに合わせて糸を作っていたメーカーを訪問したのですが、
この時、私は大変な衝撃を受けたんですね。
人生の一番の転機になったのはこの時だったかもしれません。

驚いたことに、工場に並んでいたのは
我が社で使われているのと変わらない機械でした。
その代わり、どの機械にも職人たちが加えた
独自の工夫の跡があったんです。
ギアなどの部品を替えたりしながら、
独自の糸を作っているわけです。

工場長が親切な人で
「この糸を手に取ってご覧なさい」
と実際に糸を触らせながら、
この糸がなぜここまで美しくなるのか、
どうやって製造するのかといったことまで、
実に細かく丁寧に説明してくれました。

私の目を見て熱く語る
工場長の姿を見ながら、思いましたね。

「ああ、俺たちはアパレルに言われるがままに
物作りをやっているけれども、
それとは全く別の発想で生きている人だ」と。

そう考えていたら、工場長は
「私たちが世界のファッションのもとを作っているんだ」
と力強く言うわけです。
この言葉も衝撃的でした。

だって日本でいう工場のイメージは
「これを作ってくれ」
「はい分かりました」
と黙って頭を下げる、というものでしょう。

だけど、この工場長にはそういう雰囲気は微塵もない。
自信と誇りに満ち溢れていました。

「物作りの現場から世界を変えていくことは不可能ではない、
自分もこの道を歩いて行こう」

と強く思ったのはこの時が最初でした。
早速社員を集めて
「俺たちも人から言われたものではなく、
自分たちだけの糸を作ろうじゃないか」
と訴えました。

でも反応は冷ややかでしたね。
「社長の息子がイタリアにまで行って
変な風邪に感染されて帰ってきた」と(笑)。

いま思うと、新しいオリジナルの製品を作るのも大変でしたが、
それ以上にスタッフの心を変えていくのが大変でした。

* * *

その後、佐藤さんはいかにして社員の心を変革し、
世界から認められるオリジナルのニット製品を生み出したのか。

続きはぜひ『致知』1月号P60をご一読ください。

「時代はいつも魅力的な言葉から始まる」

火曜日, 12月 10th, 2013

細田高広(クリエイティブディレクター)

※『致知』2014年1月号
連載「致知随想」より

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「十年以内に人類を月に送り込む」
(ジョン・F・ケネディ)

「ポケットに入るラジオをつくれ」
(井深大)

「女の体を自由にする」
(ココ・シャネル)

いつの時代も、
未来はこうした魅力的な言葉によって
創造されてきました。

私は広告会社のコピーライターとして
企業ブランディングのお手伝いをする中で、
多くの企業が前年比何%アップといった「数字の経営」に汲々とし、
その数字がなんのためにあるのかという原点が
見失われている現状を痛感しています。

経営は本来、こんなものをつくりたい、こういう時代にしたい、
といった言葉から始まるものであり、
「言葉の経営」こそが社員を躍動させ、
時代を開く原動力になると私は考えるのです。

私はかねて主に企業の宣伝部の方と向き合い、
広告やCM制作のお手伝いをしてきました。

ところがせっかく知恵を絞っても、
その企業のトップが別の場所で
私たちが発信したメッセージと異なる発言を
していることがしばしばあり、
自分の仕事に疑問を抱いていました。

転機となったのはロサンゼルスの会社への出向でした。
現地で一緒に仕事をしたアップルやペプシ、
ゲーターレードといった会社のトップの口からは、
「こういうものがあったらいいよね」といった
無邪気な夢や常識外れな発想が、
ドキドキするような魅力的な言葉となってポンポン飛び出し、
それを周りが具体的な数字に落とし込む形で経営が行われていました。

周囲との軋轢を避けるため、
当たり障りのない発言しかしない
多くの日本のトップとの違いを痛感したのです。

以来私は、クライアントの意思決定に関わる経営層と直接向き合い、
マーケティング戦略や企業戦略といった
より上流の部分からブランディングに関わることで、
的確で魅力的なメッセージを発信する努力を重ねているのです。

冒頭の「ポケットに入るラジオをつくれ」という言葉を
井深大氏が発信した当時、
ラジオというのは大きな「家具」でした。

単に「小さなラジオをつくれ」という指示であったなら、
従来のラジオを少し小さくしたものしかできなかったでしょう。
「ポケットに入る」という言葉によって、
ラジオを外に持ち歩くという新しい発想が共有され、
形になったと思うのです。

またシャネルは、
窮屈な衣服で心身ともに束縛されていた女性を解放する、
というブランドに懸ける思いを、
「女の体を自由にする」という明快な言葉で表現することによって、
新しい未来像を提示し、社会から絶大な支持を集めたのです。

言葉には、人の意識や現実を大きく変える力があります。

* * *

その他、
ディズニーランド躍進の秘訣、
商品開発から経営戦略、マネジメント、
人生設計まで役立つ言葉の技術とは。

続きはぜひ『致知』1月号P89をご一読ください。