まほろばblog

Archive for the ‘未分類’ Category

農園大根も急いで収穫中!

水曜日, 11月 20th, 2013

IMGP9947

今日はいよいよ越冬用の大根抜き。雪の予報がちらほら聞こえているので、早いとこ全部抜いて、越冬用に冬囲いしなければいけません。

 

IMGP9925

平地ではそれほど気温が下がらなくても、山はシバレて抜けない事も多々あります。

 

IMGP9937

朝方降っていた雨も上がり、土も緩んで絶好の(?)大根抜き日和。

 

IMGP9915

ここはやはり、福田君の馬力が光ります。大根が凍ってしまったらもうお仕舞いなので、とにかくどんどん抜いていきます。

 

IMGP0031

運悪く、前日の作業で運搬車が故障してしまい、急遽トラクターでストック場へ運ぶ事に。

 

IMGP0035

明日は福田君がいないためトラクターも動かせず、ピンチが続きます。

IMGP0063

とにかく、できるだけ抜いて雪囲いしなくては…。

 

IMGP0072

凍ばれないよう葉をつけたままストック場に立てて並べて行きます。

 

IMGP0081

土作りから丹精こめた今年の大根も、美味しく立派に育ってくれました。

 

最後に土を寄せて…。

IMGP0086

IMGP0085

 

農園スタッフの皆様、ほんとうにお疲れ様です!

IMGP9959

遠く後ろに見えるのが収穫前の大根。まだまだ、たっぷり!!

 

※凍ったり解けたりして、上の部分にスが入って食味の落ちたものが混ざっている場合があります。その際は無償で交換させていただきますのでレジにてお申し付け下さい。

※葉付きの大根で輪黒のものも同様に交換させていただきます(最初から輪黒で販売しているものは除く)。

※尚、レシートや現品はお持ち頂かなくてけっこうです。

 

※2013年11月19・20日のレポートです。

(Poto/Text:編集部 島田浩)

農園はくさい、急ピッチで収穫中!

火曜日, 11月 19th, 2013

IMGP9769

本格的な雪を目前にして、貯蔵用の白菜を急ピッチで収穫中です。

 

IMGP9771

根雪になってしまったら、この大量の白菜たちとも、もうオサラバ…。春になって菜花をいただく位しかありません。

 

IMGP9803

農薬を使わず手間隙かけて丹精こめて育てた白菜が、なんとか皆様のお口に白菜として入るよう、農園スタッフが寒風吹きすさぶ中、汗を流して収穫しています。

 

IMGP9782

IMGP9852

このままワゴン車につめこんで、第二農場に運び、越冬の準備をします。

 

IMGP9842

翌日には、まだ数千本ある大根も同様に収穫しなければなりません。

 

IMGP9896

IMGP9837

やわらかくて、甘くて、とてもおいしい白菜たちです。

 

IMGP9901

さあ、もうひと頑張り!

 

 

※2013年11月18日のレポートです。

(Poto/Text:編集部 島田浩)

グレートジャニーの関野さんが

土曜日, 10月 5th, 2013

プージェー 1

 

日本人のルーツを求めてアフリカからユーラシアへ、そしてアメリカ大陸

5万3千キロを遡行し、8年をかけてタンザニアにゴールした関野吉晴さん。

そのお話を聞ける、またとない機会です。

『プージュー』の上映会もあります。

 

プージェー 2

「感性を研ぎ澄ませ 患者の声に謙虚に耳を傾ける」

月曜日, 9月 9th, 2013
 押川 真喜子(ハーフ・センチュリー・モア ケア部門統括責任者/
          聖路加国際病院訪問看護ステーション元所長)

              『致知』2013年9月号 
                   「致知随想」より

f5568cfb1c4510df9e98e36930bfbe7b[1]
一九九二年、三十二歳で
聖路加国際病院訪問看護科を立ち上げ、
その後ステーションに移行してから二十一年。

その間に私は約千人もの患者と出逢ってきました。

訪問看護では、年齢や疾患を問わず、
在宅療養患者のもとを訪れ、様々な処置を行います。

介護職でも対応できる入浴の介助から、
点滴等の医療処置、入院の判断をはじめ、
緩和ケアや終末期の看取りへの対応。

その裁量の大きさゆえ、訪問看護師の責任は重大です。

私は看護師生活の大半を訪問看護に捧げてきましたが、
大学卒業直後は「死を目の当たりにしたくない」
という理由から、保健師として保健所に就職しました。

そんな私の転機となったのは、
筋萎縮性側索硬化症(ALS)の男性との出逢いでした。

ALSは筋肉が萎縮し、全身麻痺になる難病です。
人工呼吸器が必要となるため長期入院を強いられ、
奥様は幼い子供をお義母様に任せて
献身的に看護されていました。

本人はもちろん、家族の負担は
計り知れないものだったと思います。

しかしそのような状況でも、
明るく気丈に振る舞う奥様に心打たれ、
病室を訪ねるうちに私は思わず口走っていました。

「何かあったらお手伝いしますから、
  なんでも言ってくださいね」

とは言え、病状から退院は無理だろう、
と内心思っていた私に奥様から電話が入ったのは、
三か月後のことでした。

「病院が廃業することになったの! 押川さん助けて!」

自分から申し出た手前、断ることもできません。
奮起した私は帰宅の願いを叶えるべく、
道を模索し始めたのでした。

しかし、当時は訪問看護という言葉すらなかった時代。
ALS患者の在宅看護を主張した私は、
保健所の中で完全に孤立してしまいました。

家族が分断され、長年辛い思いをしてきた方たちの
願いをなんとか叶えたい。

その一心で関係者の説得や機器の手配に奔走した結果、
保健所の所長が帰宅を許可してくださったのです。

「お父さんおかえり!」

当日、涙を流しながら子供たちに迎えられる彼を見て、
私は涙が止まりませんでした。
これが私の訪問看護の原点となったのです。

その後聖路加国際病院に移り、
院長の日野原重明先生に訪問看護の必要性を直訴。

先生はすぐ志に共感してくださいました。
しかし医師たちは看護師が医療処置をすることに
不安感を抱いており、処置の実演など、
技量を試されることも少なくありませんでした。

訪問看護の草創期は、血圧測定や簡単な問診のみを行う
「家庭訪問」が主流でした。

しかし、徐々にではありましたが、
私たちを必要としてくださる方は増え、
ケアの範囲も広がっていきました。

看護を始めて約十年が経った頃のことです。

経験を積んだ私は周囲から認められ、
いまにして思えば、過信していたのかもしれません。
そのような時、その後の仕事観を
決定づける出逢いが訪れました。

彼女は十七歳の白血病患者でした。
白血病は病状が悪化すると、毎日輸血が必要になります。
同様の状況だった彼女は、
ある時何度も注射に失敗するスタッフに不満をぶつけたのです。

自分たちは精いっぱいやっているのに……。
そんな思いがよぎり、
私はついこう漏らしてしまったのでした。

「私たちも頑張っているのだから、
  少しくらい我慢してくれてもいいのでは」

それを聞いた彼女は、

「私には、優しいけど何度も失敗する看護師さんではなく、
  怖くても一回で処置をしてくれる看護師さんが必要です」

と、涙ながらに訴えました。

病院では、失敗しても
はっきり拒否されることはありませんでした。

長期療養してきた彼女ゆえの切実な叫びに、
私は奈落の底に落とされたような衝撃を受けました。

生死と隣り合わせの人を相手にしているからこそ、
常にプロフェッショナルであることが求められる。

彼女の一言から私は、訪問看護師として
忘れてはならない三か条を掲げました。

「客観的に自分やスタッフの力量を判断する」

「患者の価値観を尊重する」

「感性を研ぎ澄ませる」

一人ひとりの死に様は、その人の生き様とも言えると思います。
その瞬間を最善のものにするためには、経験を積み、
理論を学ぶことも重要ですが、それをどう生かすかは、
私たちの力量次第です。

感性を研ぎ澄ませ、謙虚な姿勢で患者の声に耳を傾ける。
以来私は、これらを訪問看護の基本として、
仕事に打ち込んできました。

「病気になったことはとても悲しかったけど、
  あの時間が私たちにとって一番の宝物で、
  それは主治医と押川さんのおかげです」

約九か月の看護の後、彼女は亡くなりました。

しかし、最後に家族がそう言ってくれ、
多くの学びを残してくれた彼女の存在は
いまも私の心の支えになっています。

そして今年三月、私は訪問看護ステーションを卒業しました。
あえて自分が退くことで、後進に伸びてほしいと願い、
さらに高齢化が進む日本の将来を見据えて、
介護施設の介護職を統括する現職に就きました。

訪問看護でカバーできる部分は限られている一方、
団塊の世代の高齢化が進めば、看る側も看られる側も
認知症を患っている「認認介護」も問題になってくるでしょう。

しかし、介護施設での介護や看取りは
まだ整備されていないのが現状です。

これまでの経験を生かして、
多くの人が自身の生を全うできる施設づくりに貢献したい。

その実現のために、これからの看護師生活を
捧げていきたいと思います。

「芸能生活で支えにしてきた言葉」

月曜日, 9月 9th, 2013
    黒柳 徹子(女優・ユニセフ親善大使)

              『致知』2013年10月号
               特集「一言よく人を生かす」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201310_pickup.html#pick1

└─────────────────────────────────┘

私にはあんまり、こうしたい、ああしたいと
いう野望はないんです。

いまここにあるものを、
どうすれば切りひらいていけるかという
考えで生きてきたので。

ただ、努力はしますよ。

俳優の渥美清さんは私の芝居を
よく見に来てくださったのですが、感想は

「お嬢さん、元気ですね。元気が一番」

といつもそうでした。

また長年指導していただいた
劇作家の飯沢匡(ただす)先生も、
台本をどう演じればよいかを伺うと

「元気におやりなさい。元気に」

とおっしゃった。

その頃は元気だけでいいのかなと思ったんですが、
いまとなれば、どんなに才能があっても、
結局、元気でなきゃダメなんだということが分かるんです。

「元気が一番」という渥美さんの言葉も
随分私の力になっていますが、
もう一つ仕事をしていく上で大事にしているのが、
マリア・カラスの言葉です。

二十世紀最高のオペラ歌手と謳われた彼女が

「オペラ歌手にとって一番必要なものはなんですか」

と聞かれた時に、こう答えたというんです。

「修練と勇気、あとはゴミ」と。

彼女は生前、四十ものオペラに出たんですが、
楽譜を見ると分かるように、
それぞれに物凄く細かい音がある。

しかし彼女はその全部に対して
「絶対にこれでなければダメだという音を、私は出してきた」
と言い切っている。要はそれくらいの修練をし、
身につけてきたということでしょう。

私は毎年一回、舞台をやるんですが、
その時にはやはりね、
「修練と勇気、あとはゴミ」と思いますよ。

そのためには一か月半の稽古をし、
二千行におよぶセリフを覚えなければならない。

だから皆と飲みに行くことも、
ご飯を食べに行くこともなく、
稽古場から家に帰って、
あとはずっとセリフを覚えたり勉強をしたりで、
全神経をそこに集中させていく。

もう一つ、これはイギリス人の方が教えてくれたのですが、

「ある人が飛躍して才能を発揮する時には、
 皆が寝ている時にその人は寝ていなかった」

という言葉があるんです。
つまり努力をしたということでしょう。
でも並の努力ではそこまでいきません。

「ルバング島で30年間、孤独感がなかった理由」

木曜日, 8月 29th, 2013
     小野田 寛郎(元陸軍少尉・財団法人小野田自然塾理事長)

              『人間学入門』(致知出版社)より
           http://www.chichi.co.jp/news/3818.html

110119[1]

(ルバング島にいた)30年間で発熱は2回でした。
それは仲間が負傷して、介護疲れでちょっと出しただけです。

熱が出たところで、医者も薬もないですから、
まずは健康でいることが大事です。
そして健康でいるには
頭をよく働かせなければダメです。

自分の頭で自分の体をコントロールする。
健康でないと思考さえ狂って、消極的になったりします。

島を歩いていると、
何年も前の遺体に会うこともあるんです。

それを埋めながら、
「早く死んだほうが楽ですね」と仲間に言われ、
本当にそうだなと思ったこともあります。

獣のような生活をして、
あと何年したらケリがつくか保証もないですし、
肉体的にもそういつまでも戦い続けるわけにもいかない。

いずれはこの島で死ななきゃいけないと覚悟しているので、
ついつい目の前のことに振り回され、
「それなら早く死んだほうが……」と思ってしまう。
結局頭が働かなくなると、
目標とか目的意識が希薄になるんです。

だから、仲間と喧嘩をするのも、
頭が働かずに正しい状況判断ができない時でした。

右に行くか、左に行くか。
そっちへ行ったら敵の待ち伏せに遭うから嫌だと言う。
しまいには、

「隊長は俺たちを敵がいるところへ連れて行くのか、
 そんな敵の回し者みたいな奴は生かしておけない」

と言って銃を持ち出します。

「馬鹿、早まるな。やめろ」

と言えばいいんですけど、
こちらもついつり出されて銃を構えてしまう。
しまったと思って、

「じゃ命があったらまた会おう」

と言って回れ右して、僕は自分が行こうと思っていた
道を行くのですが、背中を見せるわけだから、
そこで撃たれたら死んでいました。

だから僕らの場合は議論をするにも命がけでした。

いずれにしても、頭がしっかり働かなくなると
正しい状況判断ができなくなる。

          * *

よく孤独感はなかったかと聞かれましたが、
 僕は孤独なんていうことはないと思っていました。
22歳で島に入りましたが、持っている知識が
そもそもいろいろな人から授かったものです。

すでに大きな恩恵があって生きているのだから、
決して一人で生きているわけではないのです。

 一人になったからといって昔を懐かしんでは、
かえって気がめいるだけですから、
一人の利点、それを考えればいいんです。

 一人のほうがこういう利点があるんだと、

それをフルに発揮するように考えていれば、
昔を懐かしんでいる暇もなかったです。

「ヒルティに学んだ心術」

水曜日, 8月 28th, 2013
     渡部 昇一(上智大学名誉教授)

              『人間学入門』(致知出版社)より
           http://www.chichi.co.jp/news/3818.html

nabesho[1]

ヒルティ(スイスの哲学者)が
エピクテートスを訳しているんです。
エピクテートスは有名なストイックな哲学者です。

そのエピクテートスを訳した
ヒルティの前書きがいいんだ。

ヒルティというのは
非常に熱心なキリスト教信者なんですが、
彼はその文章の中で、キリスト教の教えは非常に高い教えだから、
本当にわかるためにはある程度、
人生の苦難をなめたりしなきゃならん。

だからこれからという若い人が
宗教的な悟りを開いちゃうのは
考えもんだといっている。

本当の人生の困難に会ったときに、
昔、どこかでこんな教えを読んだことがあったというんで、
かえってね、宗教に感激する心がなくなることもある。

それで、むしろ、青年には自分は
エピクテートスのような生き方を教えたいといって、
わざわざ、訳しているわけです。

エピクテートスの哲学というのは、
一種の“悟り”の哲学です。

どういうことかというと、自分の置かれた環境の中で、
自分の意志で自由にならない範囲を
しっかりと見極めるということです。

自分の意志の範囲にあるかどうか。

そこにすべてが、かかっているということです。

ただ、それがはっきりとわからないとだめです。

はっきりわかると、
自分の意志の範囲の中にあるものは、
自分が考えて最善の手を打つ。

打ちたくなければ打たなくてもいいが、
すべては自分の意志の範囲にないもの、
これはあきらめる。

こういうものに対しては、
絶対に心を動かさないということです。

外界のもの、地震とか天災とかは自分の意志の範囲にない。
友人や世の中の人が自分をどう思うかも、
自分の自由にはならない。

こういう自由にならないものに、
自由にならないといって、腹を立て、
心の平静を失うのは愚かだということです。

こういう物に対しては
絶対に自分の心を騒がせない。

例えば、ぼくが三十年前に上智大学を
一流大学と思ってもらいたい、
やってることはいいんだからといったって
他の人は認めないものはどうしようもない。

これは意志の範囲にはないんです。

ところが、教えられていることはついていくのが
苦しいくらい高級なものをびしびしやっている。

すると、これを十分に消化するために毎朝、
五時に起きて朝めしまで二時間勉強することから
始めようというのは、それをやるかどうかはまったく、
これは自分の意志の範囲です。

意志の範囲にあることはいいわけをしないで、自分でやる。
で、意志の範囲にないことは問題にもしない。
心を動かさない。

まぁ、こういうのが、
ヒルティから学んだことの一つでしょうね。

「幸運に恵まれるには?」

木曜日, 8月 22nd, 2013
     稲盛 和夫(京セラ名誉会長)
                『人間学入門』より
      http://www.chichi.co.jp/news/3818.html

binii001[1]

仏教には「思念は業をつくる」
という言葉があります。

業はカルマともいいますが、思ったり念じたりすると、
仏教でいう因果応報の因をつくります。
業は原因ができると、必ず現れてきます。
因果応報の応報です。

世のため人のために尽くそうなどという、
大上段に振りかぶったようなことをいう人があると、
インテリであればあるほど
それをせせら笑う人が多いようです。

しかし、世のため人のために尽くそうと
いうことぐらい立派なことはありません。

私たちそれぞれが生まれてきた人生の目的は、
世のため人のために尽くすことです。

一燈照隅といいますが、
どんな人でも素晴らしい役割を持って
生まれてきたわけです。

その役割を通じて、世のため人のために
尽くすことが大事なことなのです。

世のため人のために尽くそうとすることによって、
自分の運命を変えていくことができると思います。

同時に自分だけよければいい、
という利己の心を離れて、
他人の幸せを願うという利他の心になる。

そうすれば自分の人生が豊かになり、
幸運に恵まれる、ということを
仏教では説いているのです。

天台宗の山田恵諦(えたい)座主に生前
何度かお目にかかってお話をさせていただく
機会がありました。

ある時、「忘己利他」という言葉を
教えていただいたことがあります。

私はこれを「もう懲りた」と読むようにしています。

そして自分だけよければいいという考えには、
もう懲りたというように思ってきました。

そう思うことが人生を豊かにしていく基だと、
安岡正篤先生からも教わったからです。

「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」

水曜日, 8月 21st, 2013
      永守 重信(日本電産社長)
              『一流たちの金言』より
      http://www.chichi.co.jp/news/3818.html

└─────────────────────────────────┘

【記者:ゼロからここまで会社を成長発展させることが
    出来たのは、なぜだとお考えですか】

信じる通りになるのが人生であるということですね。
僕はこの言葉を自分で色紙に書いて、
目のつくところに置いています。

自分でこうなりたいと思っていることもなれないのに、
思わないことが実現するわけは絶対にないですから。
だから信じる通りになるのが人生ということですな。

しかし世の中の人はみんな信じない。
頭のいい人ほど先が見えるから信じませんね。
できるわけがないと思ってしまう。
だからむしろ鈍才のほうが教育しやすいですね。

創業間もないころの日本電産は、
私の家の一室で図面を引き、桂川の堤のそばにあった
三〇坪ほどの染め物工場の一階を借りて、
旋盤とボール盤、プレス機を一台ずつ入れて
仕事を始めたんです。

どこへ行っても仕事はもらえず、
やっと受注できた仕事といえば
過酷な注文がつくために
ほかのメーカーのどこもやらないような仕事ばかり。
技術者みんなに言うと絶対無理だと言う。

そういうときはみんなを立たせて、
いまから出来る出来る一〇〇回言おうというわけです。

「出来ます。出米ます。出来ます……」。

「どうや」と。

「いや出来ません」。

今度は一〇〇〇回言う。

そうすると不思議なことに
だんだん出来る気分になってくるんです。

そういう気分になったところで一気に始める。
すると、客先の要求する性能に及ばないまでも
かなりレベルの高い製品が仕上がる。

こうやって日本電産の技術力が蓄積されていったんです。

このときに「とても無理だ」「不可能だ」とあきらめていたら、
日本電産はとっくに倒産していたと思います。

社員によく言うんです。

「物事を実現するか否かは、
 まずそれをやろうとした人が“出来る”と信じることから始まる。

 自ら“出来る”と信じたときに
 その仕事の半分は完了している」

とね。

 『清、負けたらあかん』

金曜日, 8月 9th, 2013
貧乏と小児マヒを乗り越えた孝行社長の物語

    川辺 清・著
   
324[1]
    *     *

焼肉の「情熱ホルモン」をはじめ、
様々な事業を手がける「五苑マルシングループ」は、
今年4月で創業から50年を迎えます。

創業者の川辺清氏は昭和13年生まれ。
靴職人で博打好きだった父はほとんど家に帰ることなく、
母は生活費を得るために、
夫の行方を捜しながら4人の子供を育てたといいます。

清が2歳の頃のことです。
帰ってきた母がボロ布団の中でぐったりと横たわる清を見つけました。
布団をめくってみると、
紫色に腫れ上がった清の左足首からは膿が垂れ、虫が湧いています。
急いで病院に駆け込んだものの、
清の左足は完治することなく、
小児マヒの身となってしまいました。

その後、父の意向で清だけが
親戚の家に預けられることになります。
継ぎ接ぎだらけの服、小児マヒで骸骨のようになった左足、
それを引きずるようにして歩く姿がおかしいと、
近所の子供たちから毎日のようにいじめられました。

孤独でつらい日々でしたが、
清の心の中にはいつもやさしい母の存在がありました。
子供の頃から抱いていた
この「お母ちゃんを早く楽にしてあげたい」という思いは、
清が大人になってからも続きます。

中学を出た清は、
奈良の靴職人のもとへ奉公に出ました。
仕事は朝6時半から夜中の12時まで、
休みは月に2回のみでしたが、
早く一人前になりたい一心から懸命に働きました。
ところが2年経った頃、結核を患ってしまい、
不本意にも実家へと追い返されてしまったのです。

「俺は本当に駄目なやつだ」

絶望した清は自らの命を絶とうと迫り来る機関車に身を投げました。
ところが次の瞬間、清は傍らの草むらの上に倒れていたのです。
恐れに飛び退いたか、風圧に飛ばされたか、ともかく生きていました。
ふと線路を見ると、
ポケットから転がり出た5円玉が身代わりに機関車に潰され、
平べったくなっていました。

「俺は5円玉や。5円玉の輝きを見せてやる」

新たな決意に病魔も退き、無事年季を全うした清は25歳で会社を創業。
以来、異業種にも果敢に挑戦しながら、
経営者として事業に情熱を注ぐ一方、
子として母に孝養を尽くしました。

実話を元に記された川辺氏の半生が描かれた本書は、
遡ること平成5年に刊行された作品です。
この20年、川辺氏は正月になると本書を読み返し、
自身の原点を振り返ってきたといわれます。

親が子を思い、
子が親を思う姿が美しく綴られた感動の名作から、
親子関係や孝行のあり方について、
見つめ直してみるのはいかがでしょうか。