まほろばblog

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「売り手よし、買い手よし、世間よし、ふるさとよし」

木曜日, 8月 8th, 2013
     山本徳次(たねや名誉会長)

                『致知』2013年9月号
                 特集「心の持ち方」より

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田中 この後、近江八幡の日牟禮(ひむれ)八幡宮にある
  「日牟禮ヴィレッジ」のお店に案内していただけるということで、
   楽しみにしておりますが、オープン以来、大変な人気のようですね。

山本 おかげさまで十年前にオープンして以来、
   一日三千人から五千人の方々が八幡宮にやってきて、
   お店にも立ち寄っていかれます。

   日牟禮というのは近江八幡の古名で、
   古くは日牟禮の里と言いました。
   その近江八幡のシンボルである日牟禮八幡宮は、
   いわば商人道の原点とも言うべきお社です。

   彼らは他国へ行商に出る前と、帰った後に、
   必ずここでお参りをしていました。
   そして富を得ると、惜しみなく
   故郷の村の神社仏閣に寄進をしたといいます。

   よく「売り手よし、買い手よし、世間よし」で
   三方よしと言われますが、
   私は「ふるさとよし」の四方円満こそ、
   近江商人の行き方ではなかったかと感じるんです。

田中 なるほど、ふるさとよしですか。
   それは初めて伺いました。
   しかしよく八幡宮の境内にお店をつくろうと
   お考えになりましたね。

山本 これは至極単純な理由で、店を出す時には、
   神社仏閣やお城の近くなど、
   そう簡単に変わらないものの傍と決めています。
   百貨店なら主要店にといったふうに。

   そうすればなくなったり、移転する可能性が低いでしょう。
   揺るがないものの傍で、その地域地域に合った商いをするのも、
   近江商人の行き方です。

   また、お宮さんというのは、
   きょうは景気がよかったとか悪かったとかいう浮き沈みがない。
   いつも変わらない心、不変の心こそが大切だという考えで、
   その思い入れをより強くしたい、と。

   こんなに近くで商売をさせてもらっておきながら、
   あそこの店はええ加減で、と言われるようになったらあかんわね。
   やっぱり正真正銘の、裏表のない店でないと。

※事業永続・繁栄のヒントが満載の対談
「商いの道は人の道」。

「娘が残した九冊の日記」

日曜日, 8月 4th, 2013
        植木 誠(教研学習社代表)

              『致知』2005年7月号
               致知随想より

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二十二年前、十一歳だった娘の亜紀子は
「ママ、ごめんね……」という言葉と九冊の日記帳を残し、
この世を去りました。

三歳で白血病を発病し、人生の大半を闘病生活に費やした
彼女の最期は、穏やかで安らかなものでした。
しかし私の胸の中に去来したのは、
罪悪感以外の何ものでもありませんでした。

当時私は中学校の国語の教師をしていましたが、
二十二年前といえば日本中の中学が荒れに荒れ、
私の赴任先も例外ではありませんでした。

昼間、学校で生徒指導に奔走し、
ヘトヘトになって帰宅すると、娘が一晩中、
薬の副作用で嘔吐を繰り返す。

あるいは妻から「きょうは亜紀子が苦しそうで大変だった」と
入院先での容態を聞かされる。

「俺はもうクタクタだ。一息つかせてくれ」

と心の中で叫んでいました。
そしてある日、妻にこう言ったのです。

「治療はおまえに任せる。俺は学校で一所懸命仕事をする。
  経済的に負担をかけないようにするから、任せておけ」

もっともらしく聞こえるでしょう。
しかし本心は「逃げ」でした。

彼女を失い、初めて治療に関して
「見ざる・聞かざる」の態度を取り続けたことへの
罪の意識が重く重く圧し掛かってきました。

なぜ、もっと一緒に病気と闘ってやらなかったのだろう。
俺は罪人だ……。

もういまさら遅いけれども、
彼女の八年の闘病生活と向き合いたい。
その思いから、娘が残した九冊の日記帳に手を伸ばしたのでした。

「十二月二日(木)

  今度の入院からはいろいろなことを学んだ気がします。
  今までやったことのない検査もいろいろありました。

  でも、つらかったけど全部そのことを
  乗りこえてやってきたこと、
  やってこれたことに感謝いたします。

  これはほんとうに、神様が私にくれた一生なんだな、と思いました。
  きっと本当にそうだなと思います。
  もし、そうだとしたら、私は幸せだと思います」

「二月十日(木)

  早く左手の血管が治りますようにお祈りいたします。
  そして日記も長続きして、元気に食よくが出ますように。
  また、いつも自分のことしか考えている子にしないで下さい」

点滴点滴の毎日で左手の血管が潰れ、文字は乱れていました。
それでも一所懸命書いたこの一文に
十一年間の彼女の人生が象徴されているようで、
私にはとても印象に残りました。

あれは彼女が亡くなる数日前のことでした。

朝、妻に頼みごとをして仕事へ行きましたが、
その日は検査や治療で忙しかったらしく、
夕方私が病院に着いた時、まだ手つかずのまま残っていました。

「きょうは忙しくてできなかった」

と妻に言われ、一瞬ムッとした顔をしましたが、
娘はそれを見て、

「ママやってあげて。私のことはいいから」

と言ったのです。

命が尽きるその時まで自分のことだけを
考えている子ではありませんでした。

すべて読み終えた時、私は胸を打たれました。

普通に学校にも通いたかったでしょう。

こんなに苦しい闘病生活を送らなければならない
運命を恨みたくもなったでしょう。

しかし日記には同じ病室の子どもたちを思いやる言葉や、
苦しい治療に耐える強さをくださいという祈りの言葉、
明日への希望の言葉、そんな強く美しい言葉ばかりが
記されているのです。

広い世の中から見れば、一人の少女の死に過ぎませんが、
この日記から得る感動は親の贔屓目ではなく、
誰もが同じ気持ちを抱くだろうと思いました。

私は彼女へ対する懺悔の気持ちと相まって、
「娘の日記を世に送り出したい」と思い至りました。

そうして教職を辞して出版社を設立、
娘が残した日記をまとめ出版したのです。

各マスメディアが取り上げてくださったおかげで反響を呼び、
映画化もされました。

たくさんの激励のお手紙をいただき、
それを励みに今日まで毎年一冊ずつ彼女が残した日記を
出版し続けることができました。

もちろん、行き詰まりそうになったことはたくさんあります。

十一年前には映画の製作会社が倒産し、
フィルムが紛失しかけたことがありました。
それをなんとか見つけ出し、
財産をはたいて版権を買い取りました。

映画技師の資格を取り、平成五年からは
自主上映会と同時に講演を行う形で全国を行脚しています。

人は私のことをただの「親ばか」だと思うかもしれません。

しかしこの二十二年間、
私は娘の日記によって生かされてきました。

読者の方や講演先とのご縁をいただき、さらに

「感動した」

「これからもあっ子ちゃんのことを伝えてください」

という励ましの言葉をいただける。
それがいまの私の支えです。

娘の亜紀子は短くとも最期まで前向きに、
他の人を思いやって生き抜きました。

本当はもっと生きたかったはずですが、それは叶わなかった。

そんな女の子がいたことを、
出版や講演を通して世に伝えることで、
あたかも人間の命が弄ばれているかのような
現代社会に対し、命の尊さを訴えたいと思っています。

先日、私の講演もついに百回目を迎えましたが、
その会場は偶然にも娘が亡くなるまで通った小学校でした。
遥か後輩にあたる子どもたちが、
「一日一日を大切に生きたい」という感想をくれました。

私の活動は世の一隅を照らすことしかできませんが、
どんなことがあっても続けていかなければならない
という気持ちを新たにしました。

「怒涛の人生 ~かく乗り越えん~」

日曜日, 8月 4th, 2013
      

       尾車 浩一(日本相撲協会巡業部部長・理事)

          『致知』2013年9月号
           特集「心の持ち方」より
   http://www.chichi.co.jp/monthly/201309_pickup.html#pick2

尾車浩一HP[1]


【記者:十年前にもご登場いただきましたが、
    大変お元気な印象が強かっただけに、
    昨年、脊髄損傷で四肢麻痺になられたという
    報道を聞いて大変驚きました】

私、昨年の二月に相撲協会内の巡業部長に就任したんです。
平成六年から巡業部に籍を置き、
自分なりに改革する点がいっぱいあるなと思ってきました。

三月の本場所を終え、部長として初めて四月に巡業を迎えました。

スタートの四月一日は伊勢でした。
神宮に集まった全力士の前で巡業の責任者として
私なりの決意を述べました。

相撲界は不祥事やらいろいろあったと。

だからお客さんは本当に相撲界が変わったのか、
変わっていないのか、ちゃんと見ている。
俺も精いっぱい頑張るから、みんな一緒についてきてくれ。
とにかく真剣な取り組みを見せようと。

奈良を経て、四月三日と四日は
福井県小浜で二日間の興行でした。
市内の体育会に養生用のブルーシートを張って、
そこに土俵を設置して開催したのです。

そして二日目の出来事でした。
きょうも巡業がうまくいってほしい。
そんな思いで会場内を歩いて視察していたんです。

ふと、土俵のほうが気になったんですね。
ひょいっと、土俵のほうを見ながら
前方を確認せずに歩いていたのが災いしました。

足がブルーシートのつなぎ目に引っかかって、
バターンと。

どんなふうに倒れたのか自分では覚えていないけれども、
転倒して、気づいたら床に仰向けになっていました。

ああ、転んでしまった。
立ち上がろう、と思っても、体に力が入らないんですよ。
あれ? 動かないと。

周囲の人たちに上体を起こしてもらいながら、
手足に「動け、動け」と指令を出したけれども、
残念ながらピクリともしなかった。
「あぁ、これはえらいことになったな」と思いました。

【記者:その時、既に起こった事の重大さに気づいていらしたのですね】

これは後から分かることですが、この時、
私は首を強打して脊髄を損傷してしまったんです。

四肢麻痺状態で動かない体を救急車に乗せられて、
小浜市内の病院へ。

そうして検査、検査が続いて、
MRIの狭い箱の中に入れられた時、涙が出てきました。
どういう涙と言ったらいいのかな……。

情けないのか、悲しいのか、よく分からないけれど、
天井を見ながら涙がポロポロと出てきたことは覚えています。

翌朝、ヘリの手配がつかず、
民間の救急車でストレッチャーに寝たまま
東京の慶應病院へと向かいました。

駆けつけた女房と、小浜の病院の先生が
同乗してくれていましたが、
聞けば到着まで八時間もかかったといいます。

その間、私は「なんで自分がこんなことに」
という情けない思いと、ただただ女房に
「すまない」という、それだけでしたね。

※尾車氏はいかにこの苦境を乗り越え、
 奇跡といわれる回復を果たしたのか?

 詳しくは、まもなくお手元に届く
『致知』9月号(P26~30)をご覧ください。
http://www.chichi.co.jp/monthly/201309_pickup.html#pick2

「大哲学者カント誕生秘話」

月曜日, 7月 29th, 2013
          『致知』2008年1月号
           特集「健体康心」総リードより

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ドイツの哲学者カントは、
馬の蹄鉄(ていてつ)屋の子に生まれた。
生まれつきのくる病であった。

背中に瘤があり、乳と乳の間は僅か二インチ半、
脈拍は絶えず百二十~百三十、喘息で、
いつも苦しげに喘いでいた。

ある時、町に巡回医師がやってきた。
少しでも苦しみを和らげられたら、と
父はカントを連れて診せに行った。

診てもらってもどうにもならないことは、
カント自身も分かっていた。

そんなカントの顔を見ながら、医師は言った。
その言葉がカントを大哲学者にするきっかけとなったのである。

「気の毒だな、あなたは。
  しかし、気の毒だと思うのは、
 体を見ただけのことだよ。

 考えてごらん。
 体はなるほど気の毒だ。
 それは見れば分かる。

 だがあなたは、心はどうでもないだろう。
 心までもせむしで息が苦しいなら別だが、
 あなたの心はどうでもないだろう。

 苦しい辛いと言ったところで、
 この苦しい辛いが治るものじゃない。

 あなたが苦しい辛いと言えば、
 おっかさんだっておとっつぁんだって
 やはり苦しい、辛いわね。

 言っても言わなくても、何にもならない。
 言えば言うほど、みんなが余計苦しくなるだろ。

 苦しい辛いと言うその口で、
 心の丈夫なことを喜びと感謝に考えればいい。

 体はともかく、丈夫な心のお陰で
 あなたは死なずに生きているじゃないか。

 死なずに生きているのは丈夫な心のお陰なんだから、
 それを喜びと感謝に変えていったらどうだね。

 そうしてごらん。
 私の言ったことが分かったろ。
 それが分からなければ、あなたの不幸だ。

 これだけがあなたを診察した私の、
 あなたに与える診断の言葉だ。

 分かったかい。

 薬は要りません。

 お帰り」

 カントは医師に言われた言葉を考えた。

「心は患っていない、それを喜びと感謝に変えろ、
 とあの医師は言ったが、俺はいままで、
 喜んだことも感謝したことも一遍もない。

 それを言えというんだから、言ってみよう。
 そして、心と体とどっちが本当の自分なのかを
 考えてみよう。

 それが分かっただけでも、
 世の中のために少しはいいことになりはしないか」

大哲学者の誕生秘話である

 (宇野千代著『天風先生座談』より)。

健康とは、健体(すこやかな体)と
康心(やすらかな心)のことである。

体を健やかに保つこと。
それは天地から体を与えられた人間の務めである。

そしてそれ以上に大事なのが、心を康らかに保つことだ。
体が丈夫でも心が康らかでなかったら、健康とはいえない。

いや、たとえ体が病弱でも心が康らかなら、
生命は健やかである。

これは人間個々から小さな組織、国家まで、
あらゆる生命体にいえることであろう。

カントの逸話は私たちにそのことを教えている。

草むしり・芝刈り応援隊、登場!!

土曜日, 7月 27th, 2013

佐々木造園

「へうげ醤」誕生物語 発刊!! 『ツキを呼ぶ醤油』

月曜日, 7月 8th, 2013

 

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『ツキを呼ぶ醤油』!!

この29周年記念として「『へうげ醤』誕生物語」を発刊しました。

全15pになる長編ですが、これでほぼこの醤油の全貌が明らかになります。

● 樽が全く空いてなかったところに、幸運にも一樽空けてくださったこと。

● あの3・11に仕込む予定が、地震で蔵が倒壊して仕込めなくなったが、材料は無事だったこと。

● 農水省から、醤油でない調味液だと認可されなかったが、とうとう最後は許可されたことなど・・・・。

この「へうげ醤」は、不思議な運を持った醤油で、

「よくぞ数々の受難を超えて来たぞ!」と褒めて上げたい。

これは、何かを携えて来た不思議な醤油です。

何せ、1500年来、歴史的にも、こんなに数多くの豆類を使った醤油は前代未聞ですから。

それと、産業廃棄物として厄介な代物が、

再利用の道を開いてくれそうなきっかけをこの醤油が切り開いてくれたのですから。

これは醤油業界にも、朗報なはずです。

みなさん、この「へうげ醤」を使って、運をつけましょう

ウン、ウン・・・・・

まさに「ツキを呼ぶ醤油」なんですよ。

五日市さんの講演も近いから、紹介しましょう!?

「一歩一歩踏みしめていけば、必ず幸せに辿り着く」

水曜日, 6月 5th, 2013
       清水 咲栄(90歳の郵便配達人)

             『致知』2013年7月号
               特集「歩歩是道場」より

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これまでの九十年を振り返ると、
幼い時から今日に至るまで、
とにかく働き続けてきた人生だったように思います。

私は新潟県との県境にある長野県富倉という小さな村で、
貧しい農家の長女として生まれました。
大正十三年一月十七日のことです。

働きに出ている両親に代わって、
六人の弟妹たちの子守、炊事、洗濯をするのが私の役目。

赤ん坊をおんぶして小学校に通わなければならず、
赤ん坊が授業中に泣き出してしまうこともありました。

皆が教室で勉強している中、一人外で赤ん坊をあやす。
友達からも馬鹿にされ、よく涙を流していたことを思い出します。
しかし、家に帰れば何事もなかったかのように振る舞い、
親の手伝いに勤しんでいました。

そのような少女時代を経て、
私が嫁いだのは昭和二十一年、二十二歳の時です。

その後の人生において、私を一番に支えてくれたのは
他でもない夫でした。
いままでずっと「父ちゃん」と呼んできたので、
ここでも父ちゃんと言わせてください。

父ちゃんは幼くして両親に死に別れ、
親の借金を抱えて、小学校を卒業すると同時に働きに出ました。
そのため、家はボロボロで、家具も殆どない。

そこに父ちゃんと私、二人で住み、
近くの飯山炭鉱で共働きをしました。

コークスで真っ黒になった顔を見合って笑い合う。
貧乏でしたが、そうやって毎日楽しく暮らしていました。

その後、四人の子供も授かり、
ますます仕事に精を出すようになった父ちゃんは、
炭鉱主からある鉱区のリーダーを任されるようになったのです。

炭鉱主に地代だけ払い、その鉱区で採掘された
石炭を売って得たお金で、従業員に給料を支払う、
半ば請負のような仕事を始めました。

最初は借金ばかりが膨らみ、苦労したのですが、
ある時、大量の石炭を掘り当てたのです。

儲けたお金で父ちゃんはボーナスを出したり、
温泉旅行に連れて行ったりと、
惜しみなく従業員に分け与えました。

これまでの苦労は一気に吹き飛び、
父ちゃんも私も「これで楽ができる」と
有頂天になっていました。

ところが、です。
ある朝、仕事に行くと、炭鉱の前に
「立ち入り禁止」という立て札がある。

父ちゃんが慌てて炭鉱主に掛け合うと、
「あの鉱区は私のものだ」の一点張り。
石炭が当たった途端に態度を百八十度変えたのです。

一介の炭鉱夫にすぎない父ちゃんが
炭鉱主に太刀打ちできるはずもありません。

結局、利益はすべてかすめ取られ、
残ったのは七百五十万円の借金だけ。
昭和三十六年、私が三十七歳の時でした。

それからは本当に地獄のような日々でした。

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春は足早に過ぎ・・・。

木曜日, 5月 23rd, 2013

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例年より遅かった桜の花も散り始め、札幌の短い春は初夏に向けて一気に萌え出しています。

今回の題字は、社長の瞬間芸で、ものの数分、いや数秒で決まり!

まほろば農園の夏空にぽっかり浮かぶ雲の写真に、つい微笑んでしまうような言葉です。

明日からお店も初夏モードに衣替えです。

(編集部 島田)

2題・原発関連映画

水曜日, 5月 15th, 2013

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「守拙求真(しゅせつきゅうしん)」

水曜日, 5月 15th, 2013
        平櫛弘子(小平市平櫛田中彫刻美術館館長)

              『致知』2013年5月号
               致知随想より

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数え百八で命尽きるまで彫刻に情熱を燃やし続けた
祖父・平櫛田中。

私は、祖父が晩年を過ごした自宅
「九十八叟院」(東京都小平市)に開設された
美術館で館長を務め、その芸術と人生をご紹介しています。

明治五年、現在の岡山県井原市の田中家に生まれた祖父は、
十一歳で平櫛家へ養子入りしました。

しかしながら家業が傾き、小学校卒業後に
丁稚奉公を余儀なくされ、
また当時不治の病であった結核を患うなど、
苦労の末に二十代半ばで彫刻の道に入りました。

平櫛田中の号は、平櫛家と田中家の姓を組み合わせたものです。

他の芸術家に比べて遅いスタートでしたが、
代表作である「転生」「五浦釣人(ごほちょうじん)」など、
生涯に手掛けた作品は数百点にも上りました。

わけても六代目尾上菊五郎丈をモデルに取り組んだ
「鏡獅子」は、昭和十一年より構想を練り、
二十四年に菊五郎丈が鬼籍に入った後も制作を続け、
二十年もの歳月を費やして完成させた畢生の大作です。

書も手掛けていた祖父には、
「寿 七十不踰矩(ことぶき しちじゅうにしてのりをこえず)」
という作品があり、七十にしてまだ規範を超えない、
すなわち自分はまだ道半ばであるという心境を
表現しています。

そして百八歳で亡くなった時には、
あと三十年以上は制作を続けられるだけの材が
確保してありました。

まさに不撓不屈、創作に懸ける凄まじいばかりの祖父の意欲は、
やはり仕事が心底好きであったところから
生じたものであることは言うまでもありません。

祖母が嫁いできた時、
祖父の身の回りには行李一つしかなく、
しかもその中には創作の参考に切り抜いた
新聞しか入っていなかったといいます。

生活は質素で衣食にほとんど執着がなく、
夜九時頃に床に入り、夜中の一時半から二時頃には
布団から抜け出して新聞の切り抜きを始め、
後はひたすら作品に向かう毎日。

八十を過ぎても上野桜木町の自宅から
葛飾のお花茶屋に設けたアトリエに一人で通い続けました。

高齢ゆえに家族はいつも帰りを心配し、
夜の八時頃に祖父の下駄の音が聞こえてくると
胸をなで下ろしたものです。

夏はアフリカの探検隊のような帽子をかぶり、
甚平に足袋。
その独特の出で立ちがいまも懐かしく脳裏に甦ります。