まほろばblog

Archive for the ‘文化’ Category

モンゴル塩の故郷、ジランタイから

土曜日, 8月 11th, 2012

 

昨日の10日、モンゴル塩の故郷、内モンゴルの吉蘭泰(ジランタイ)から、

『蘭泰実業』社長はじめ幹部の方々が、木曽路物産のトヤさんの案内で、

北海道見学、まほろば視察にいらっしゃった。

はるか遠くの日本の涯で、自分達の産出した塩が、このように使われているのか、

という感激の面持ちで、店内を見回られた。

食されたソフトクリームやパンにも使用され、一層日本が近しく思われたことでしょう。

創業60年、木曾路さんとは15年のお付き合い。

10万tのほとんどが国内需要で、残りが日本と外モンゴル向けという。

意外にも、世界には行き渡っていなかった貴重なものなのだ。

最後に、2階の講話室をお貸ししている橋本東峰先生主催の「詩吟教室」を見学。

歓迎の合吟で、みなさまをお出迎え。

何というベストチャンス。

漢詩が、異国の日本でこのようにして歌われていたのか、と驚きの面持ち。

終えた後、感激のメッセージ。心は届いた模様。

これからも、文化に物に、交流を深めて、友好を図ってゆきたい。

 

唐 王之渙
    「  登 鸛 雀 樓 」


白日依山盡,
黄河入海流。
欲窮千里目,
更上一層樓。

******

鸛雀樓に 登る

                       
白日  山に依りて 盡き,
黄河  海に入りて 流る。
千里の目を  窮めんと 欲して,
更に上
(のぼ)る  一層の樓。

アイヌモシリ一万年祭 24”

金曜日, 8月 3rd, 2012

アシリ・レラさんから、「アイヌ・モシリ 1万年祭 24”」のご案内を頂きました。

https://www.mahoroba-jp.net/newblog/?p=3018

https://www.mahoroba-jp.net/newblog/?p=1316

https://www.mahoroba-jp.net/newblog/?p=3638

8月15日~20日の6日間、時間を見つけて、是非ご参加下さい。

大地の母ちゃん、待っていますよ!!!

((amoさんブログ、昨年の祭より)

アイヌモシリ一万年祭
期間 毎年8月15日~20日
 アイヌの儀式カムイノミは15日と20日の午前におこなわれる。
会場 北海道沙流郡(さるぐん)平取町(びらとりちょう)貫別(ぬきべつ)旭(あさひ)の森
入場料 2000円
持ち物 テント、寝袋、雨具、箸、コップなど。
募集 祭りの準備を手伝ってくれる方は何日か前にアシリ・レラ(山道康子)宅にきてください。
155-0101 北海道沙流郡平取町二風谷
行き方 JR苫小牧駅~(43分)日高本線富川下車~バスで(30分)二風谷アイヌ博物館前下車~売店などで道をたずね(徒歩3分)山道康子さんの家に着く。そこから会場の貫別旭まで車(23km)で連れていってくれます。
 車でいく人は会場の10km手前あたりから「1万年祭」という看板がたくさんあります。
 テントのない人は先着順で集合テントに泊まれます。食べ物は会場にいろいろあるので、炊事道具はいりません。
 毎年全国から1000人もの若者がテントをしょって集まってきます。巨大なたき火を囲みながら の飛び入り歓迎のライヴ、アイヌの歌や踊り、ユーカラ、伝統工芸のワークショップ、弓大会からパン食い競争まで盛りたくさん。

山道康子(アシリ・レラ)さん
 康子さんはアイヌの聖地、北海道二風谷で子どもたちにアイヌ語と伝統文化を伝える「山道アイヌ語学校」を主宰している。さまざまな事情で預けられた10人もの子どもたちの親代わりをしながら、平和運動をつづけている。
 オレの小説「風の子レラ」の主人公レラにいろいろな知恵を伝えるチュプばあちゃんは彼女がモデルだし、あとがきも書いてくれた。
 この物語自体康子さんとの出会いがなかったら生まれなかった。オレは毎年北海道の二風谷にかよい、康子さんからアイヌの知恵を教わってきた。アメリカインディアンのデニス・バンクス、アマゾンのパブロ・アマリンゴとともに、康子さんはオレの人生でもっとも影響を受けた偉大なるシャーマンだ。 山道康子さんの略歴
 1946年、苫小牧に近い鵡川に生まれる。
 うそのような実話だが、彼女が生まれたとき、家のかまどに雷が落ちた。驚いた父親はこう言った。「この子は大泥棒か偉人になるべ」と。
 中1のとき父を亡くし、18歳で結婚。
 19歳で長男、22歳で次男を出産。
 25歳のとき、夫を亡くす。夫は対向車をよけ、電柱に激突し、2ヶ月後に白血球が減り死んだ。
 民芸店を営むが、火事で大やけどを負ったり、交通事故で大けがをしたり、苦境はつづく。
 二風谷ダムが着工され、アイヌの大地を守るため反対運動をはじめる。
 さまざまな嫌がらせにもめげず、彼女のまわりにさまざまな人々が集まってくる。
 平成1年「アイヌモシリ1万年祭り」をはじめる。「誰のためでもない。自分のため、子どもたちのためにも地球をきれいにしてカムイにかえしてあげないとね。アイヌ・ネノアン・アイヌ(人間らしい、人間)でありますように。 アイヌとは人間という意味です」
                 アシリ・レラ(山道康子)

小さくても、大きい

木曜日, 8月 2nd, 2012

 

そうそう、先ほどの『懐古酒』を買われると、

生前の寺田さんの講演録『醗酵する生き方 ~うれしき たのしき ありがたき~』が付いてきます。

これは、すばらしいの一言ですね。

このために、お酒を買っても高くなかった!と思わせるいい内容です。

読んでると、心が溶けてゆく感じですね。

開放される。

出来れば、単独にお分けしたいぐらいの本でした。

それから、今日この雑誌が贈られて来た。

これも、正直うなりましたね。

たかが64p¥¥300の冊子ですが、すこぶる気に入りましたね。

今まで、こんな優れた編集見たことありません。

季刊「SORA そら」と題した世界初のお天気マガジンなんです。

私なんか、まるで気象なんか興味ない。

しかし、無知の私をして振り向かせるものがある。

この夏号は、「巨大地震」だが、その歴史から掘り起こして、

起こるメカニズムから、あらゆるケースにおける避難の仕方などなど、

分かりやすく、馴染みやすく、興味をそそるべく編集されている。

その他の記事も、気象の様々な写真も、見る人をしてワクワクさせる。

これは、優れた編集人だなーーと感心するや、裏の出版社を見てビックリ!

今度、お世話になったIDP出版。

編集長は和泉功さん。

今まで講談社のヘッドで長く編集業に携わっていた生え抜き。

業界の表と裏の裏まで知り尽くした仕事人である。

成るほど、この人なら、この仕事をするだろう、と唸った。

昨晩で、完全に原稿と表紙カバーの校正を終了し、引渡しをしました。

長かった・・・・・。

8月24日には発刊できると思います。

能楽鑑賞会

火曜日, 7月 24th, 2012

今朝、西区民センターの藤垣館長から、能楽鑑賞会のお知らせを受けた。

今年で三回目であろうか。

その経緯は、下の氏の添え書きを読んで頂きたい。

彼は、若き日、世界ギタリストコンクールでグランプリを獲得したほどの腕を持ち、

その後、キタラコンサートの辣腕プロデューサーとして世界を飛び回り、

名立たる演奏家・オーケストラを招聘して来られた実績がある。

その彼が、再びギター演奏に復帰して、精力的に練習と録音とコンサートを開いている。

そして、最近、あのセゴビヤやジョン・ウイリアムズの両達人が、

どうして達人でいられるかを悟ったという。

それは力を抜く、脱力にあったという発見である。

全ての芸道や武道にも言えることであろう。

老子も虚や無について道を語る。

柔弱の徳こそ、至徳であると。

芭蕉も、最後は軽みである。

声も引き声を大事とする。

軽くなって、人生は再びと開く。

琴似神社の能楽について・その経緯

 

平成22,年4月 西区民センター館長についた。 

西区には住むまちとして特別な魅力がある。

区役所、区民センター、学校、保育園、交番、高齢者福祉施設等の公的施設を始め、

神社、寺、商店街、飲食店、病院、ライブハウス、演劇空間、

そして便利な交通手段に恵まれている。

僅か1㎞四方に、こけだけ多様な都市機能が集中する地域は珍しい。

琴似本通を隔て、区民センターに正対する琴似神社は、

夏秋のお祭りは勿論、初詣などで古くから地域の人々に親しまれ、

この町に独特の潤いを与えている。

赴任して間もない頃、中門の向こう御社殿の手前に、西陽にひかる光る樹木が見えた。

惹きつけられるように近づくと、

それは参道の中心に植えられた低く刈り込んだ松の木だった。

新芽が陽の光にさらされ黄緑色に輝いていた。

御社殿が後方に建て替えられた際、嘗て神様を祀ってあった場所を参拝客に迂回して

頂くめに、先代が植えた松である。

今の宮司が幼少のころは、まだまだ小さい松だったという。

松の木のある境内に立つと、お能のことが頭をよぎった。

開拓者の多くは本州から移住し、厳しい自然と闘うことを余儀なくされた。

持ち込むことが難しかった文化を、呼び寄せることができたらいい。

琴似神社は、まさに格好の場所だと思った。

その足で宮司にお会いした。

区民センターの事業としてお能を開催できないかを尋ねた。

宮司は直ぐに「琴似神社をそのようにご覧いただけたことは、たいへんうれしく思います。」。

そうおっしゃった。

その夏から、境内に仮設の能舞台をしつらえ能楽を開催した。

今年の夏も薄暮に包まれる頃、宮司が御社殿から火を運び、

能舞台の提灯に灯す。能楽の開演である。

 

平成18年度から札幌市でも指定管理者制度が施行された。

西区民センターの運営も私ども民間の経営に委ねられている。

施設を広く市民に利用して頂くことは勿論だが、

運営を通して微力ながら西区のまちづくりのお手伝いができないかと考えている。

 

地域の人々が、いながらにして楽しめる文化を醸成していくことが

このまちには似合う琴似神社の能楽は、演ずる人も、

会場を設営する人も、観客も全て地域の人々である。

ささやかな手作りの事業ではあるが、このまちの風物詩になることを夢見ている。

 

「老松(おいまつ)」という能の演目がある。

大宰府天満宮に参詣した主人公が、松の木陰で旅寝をしていると、

松の精が現れお告げを受けるという話である。

琴似神社の能楽は、

西陽に輝き私を引き寄せた松の精が導いてくれたものかもしれない。

                                                    西区民センター館長 藤垣秀雄  

                                                                  平成24年6月15日

 

なお他のサークル活動の方々を含めて、

公演の様子もNHKTVで放送される予定です。

放送日は8月28日午前11:30~12:00 「つながる@きたカフェ」です。

ささやかですが、西区の新しい流れになればと思っています。ご支援ください。

「遺された512篇の詩」

火曜日, 7月 10th, 2012

    

          矢崎節夫(金子みすゞ記念館館長・童謡詩人)

               

                                        『致知』2010年4月号
                  連載「致知随想」より
         

└─────────────────────────────────┘
 
昭和5年、26歳という若さで世を去った
童謡詩人がいました。
山口県・仙崎の地で生まれ育った金子みすゞです。
 
いまでこそ広く知られていますが、
その名は世間から長い間忘れ去られていました。
 
みすゞの名を初めて知ったのは、
小4の頃から志していた童謡詩人になるべく、
早稲田大学に通っている時のことでした。
 
ある日、通学時に読みふけっていた『日本童謡集』の中に、
有名な詩人に紛れて、聞いたことのない
童謡詩人の名前が目に留まりました。
 
読んだ瞬間、それまで味わったことのない
衝撃を受けたのです。
 
他の300数十篇の詩が一瞬にして
頭から消え去るかのようでした。
 

  朝焼け小焼けだ

  大漁だ

  大羽鰮(いわし)の

  大漁だ。

 
  浜は祭りの

  ようだけど

  海のなかでは

  何万の

  鰮のとむらい

  するだろう。

 
浜の喜びの一方で、目に見えない海の悲しみがある。
この詩は私の眼差しをいっぺんに変えてしまったのです。
世の中は常に2つに1つだというメッセージが、
この「大漁」という、わずか10行の詩の中に、
明確に収められていたのです。
 
この詩人の作品をもっと読みたい――。
その日、私は授業にも行かず、古本屋街を訪ね歩きました。
 
しかし、どこを探しても一向に見つかりません。
30篇の詩と出合うことができたのは、
それから4年後のことでした。
 
他にもみすゞが遺した3冊の手帳が
あることは知りながらも、
手掛かりはまったくない状態です。
 
私は頭の片隅に常に金子みすゞを住まわせ、
思いを飛ばし続けました。必ず見つかると信じて。
 
結局、みすゞ探しの旅は、
初めての出会いから16年の歳月を要しました。
 
手帳は、東京に住む弟さんが大切に保管していたのです。
本当のところ30篇でも十分だと思っていました。
それだけに喜びもひとしおです。
さらに驚くことに初対面の私に、
手帳を貸してくださると弟さんが言ってくれたのです。
 
もし、この手帳がなくなれば、
金子みすゞは、完全に消えてしまう。
そう思うと、私は気が気ではありません。
 
寝る時は常に枕元に置き、外出する時は、家族に預け、
何かあれば必ず手帳だけは持って逃げなさいと
言い含めていました。
 
その一方で、私はほんの1行すら読むことが
できないでいました。
ページを開こうものなら壊れてしまうほど
手帳が劣化していたのです。
高揚感とは裏腹にもどかしさが募りました。
 
1週間後、弟さんから1通の手紙が届きました。
私がある賞を取ったことが新聞に掲載され、
それをたまたまご覧になったのです。
 
 
あなたの作品から、姉ととてもよく似た感性を
持っていることが伝わってきて、安堵しています、
とありました。早速受話器を掴み、
お礼かたがた、事情をお伝えしました。
 
壊れてもいいからぜひ見てください。
それが答えでした。
 
まず丁寧にコピーをとってから、
収められてある詩を数えはじめました。
 
短い創作期間の中で、遺した詩の数は
実に520篇にも及んでいたのです。
 
その晩、私は一睡もできませんでした。
寝転がって読んでいたつもりが、
いつの間にか正座している自分がそこにいました。
 
明け方、興奮覚めやらぬ私を突き動かしたのは、
これは自分だけのものにしてはいけない、との思いでした。
 
すぐに全集の出版を思い描いた私は、
大手の出版社に次々と掛け合いました。
 
しかし、売れないものは出せないと、
ほとんど相手にされずじまい。
 
中には、何篇かを選んでみてはどうか
という話もありました。
しかし、私の思いは微塵も揺らぎませんでした。
 
一人の人間がその一生をかけて残した作品です。
512篇の中には一篇たりとも
無用なものはないと固く信じていたのです。
 
自費での出版しか道がないかと思い至った時、
ジュラ出版局という小さな出版社と出合いました。
 
当時の編集長が「活字にすれば50年残る」と、
詩に込められた価値をみごとに見抜かれたのです。
これで道が開けました。
 
それから4半世紀を経て、金子みすゞの詩は
世界10か国に訳されて親しまれるようになりました。
 
中国四川省で起きた大地震の後、
孤児となった子どもたちの心のケアとして
使われたのはみすゞの詩でした。
 
前のローマ法王もみすゞの詩にふれ、
涙をこぼされたといいます。

なぜこれほどまでに、
みすゞの詩は人の心を動かすのでしょうか。
 
みすゞが書く詩には嫌な言葉がひとつもありません。
深い優しさと明るさが特徴です。
 
一方、実生活はといえば、
特に結婚後は放蕩無頼な夫との生活の中、
常に暗い陰が付きまといました。
 
最期は親権を楯に一人娘を奪おうとした夫に抗するため、
自らの命を絶って守り抜いたのです。
 
きっと彼女は言葉の力をよく知っていたのだと思います。
書き手の最大の読者は自分。
 
となれば苦しい時ほど、自分が嬉しくなることを
書き綴ろうとしたのです。

子供でも分かる言葉で書かれた詩は、
幼稚園児から100歳まで読め、
さらに人生が深まれば深まるほど
深く読み込むことができるのです。
 
私は、お経や『聖書』などを書き残した人と同じように、
金子みすゞは生きる上で一番大切なことを
書き残すためにこの世に存在したのではないかと
考えています。
 
童謡詩人・金子みすゞの詩を発信し続けていくこと、
これが天から与えられた私の大切な使命だと思っています。
http://chichi-ningenryoku.com/?p=1164

八月出版に向けて、準備作業に追われています。

その中で、なかなか大変なのが、写真掲載や詩文転載の

一つ一つを、その所有者・所蔵元に連絡を取って許可を得る事です。

そして、最も厳格だったのが、金子みすゞ記念館の「金子みすゞ」さんの詩でした。

旧仮名遣いは元より、行換えやルビに至るまで、

原文と一字一句そのまま同じでなければいけません。

それほど、この矢崎さんは、みすゞさんの息遣いが、

言葉のはしはしまで、繊細に行き渡っていて、

おろそかに出来ないと考えられているのです。

本当に、その通りだと思います。

たまさか、国際自然医学社の山司さんが、以前から

出版元のJULA社の方と懇意にされ、居も近くにあり、

自転車で文京区内を行き来されているそうです。

そんな仲間でしたので、山司さんが連絡を取って下さり、

早く掲載許可をいただくことができました。

これもありがたいご縁だと思います。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

みすゞさんの詩は、

意味をやさしい語彙に集約する。

五七調のリズム。

常に、マクロの宇宙観を背景に、

ミクロの身近な物事から語る。

難しい仏教経典を、

簡潔な日本語に翻訳したものと言えます。

日本再生の一翼を、詩吟で・・・・

木曜日, 6月 28th, 2012

この一コマ、誠に私的なことで、表に出すべきでないと思っていたが、そうでもなくなってきたので一言。

これは、昨年よんどころない理由で詩吟を始めざるを得なくなった私。

1年を過ぎた頃から、前の厚別店長の合田さん(左はし)に勧めると、奥様が諸手を挙げて大賛成で入会。

今年、一緒に賢治の「雨ニモマケズ・・・・」を合吟。

それと、数ヶ月前、これも5年ほど詩吟を学んでいた登別のアイ企画の野崎さんがヒョンなことで入会。

今、橋本宗家の素晴らしさに惹かれて、ご一緒することになった(右から3人目)。

常に、彼は日本の今ある姿を憂い、何とかせねばと奔走している。

その一つが、日本の情操を復古することでもある。

その最も相応しい手だてとして、詩吟を選ばれていた。

私のように、いやいや始めたのとは訳が違い、そこには志がある。

最近、自然医学の連載『倭詩/やまとうた』が始まったので、これは必然の流れなのかもしれない。

今日めったなことで、日本古来の和歌や中国古典の漢詩なぞには、お目にかからないばかりか、

声に出すなど、一生にあるかないの人も多かろうと思う。

今日、日本が疲弊した原因の一つが、かような日本的情操を涵養する場を失ったからだ、と確信する。

それを取り戻す実践の場としても、詩吟は手近に身に付ける良き方法ではなかろうか。

その当日、初対面であったが、今日初めて素性を知ったのが、

アイヌや道内の風景写真家で著名な、最近入会された平島邦生さん(左2番目)。

その奇遇に驚くのだが、それはまた後述しよう。

若い層が欠落して、後代を憂うるのであるが、もし志願者あれば、

大いに歓び、共に日本再生の一隅を照らしたいと思うのだが、如何に。

http://homepage2.nifty.com/SHIGIN/index.html

賢治先生の写真

土曜日, 6月 23rd, 2012

この10日間、出版のための写真等の著作権・肖像権の問い合わせ等に、

ほとんどの時間をとられ、身動きがとれなかった。

その中で、いろいろな方々と貴重なご縁を頂きました。

その中でも宮沢賢治先生の清六さんのお孫さんから、

賢治先生の写真原版をお借りしたことは感謝にたえません。

すると、翌日新聞で賢治先生のチェロが公開されるとのこと。

何か、そのシンクロに、天の意を感じました。

ありがたいことだと思います。

「聖仏画展」開催!!!

水曜日, 6月 6th, 2012



今日から国井愉希子さんの「仏画展」inまほろばで開かれました。

写真で見るより、やはり実際は迫るものがあり、皆様に日本仏教の源流と言える

チベット仏教の聖画・タンカをその眼で、一度ご覧ください。

如来や菩薩群が、内在する光と感応して覚醒するきっかけになるかもしれません。

「色即菩提」「音声即涅槃」等々の仏語は、観念的なものでなく、弘法大師にも伝播したように、

音や色の中に、無上の悟りの世界があるとされている。

音を突き詰め、色や形を突き詰めてゆくと、やがて真実の神仏の色や音声に到達すると。

私も、本当にそう思います。

ある禪師は、「電車の音を聴き続けて、悟らねば、俺の首をくれてやる」と豪語しました。

一音成仏。

一色成仏もある訳で、一つの色を極めてゆくと、やがて悟りの世界に入ると言う訳です。

11日には、仏画教室もあります。

悟りへの第一歩。

心身が清められる、仏画の一筆一筆に、分け入ってはいかがでしょうか。

きっと、今までにない別世界を垣間見られることでしょう。

変身を期待します。

 



虚空先生からの贈り物

月曜日, 6月 4th, 2012
最近は、農園を手伝っているので、ブログがなかなか更新できません。
それと、夏頃出す本の校正や連載の書き物で時間がとれません。
今、本の写真版の掲載についての問い合わせをしているところです。
その中で、虚無僧尺八「虚鐸」の西村虚空先生の写真について、
ご子息の虚流先生にお電話して、内容確認と許可を請いました。
すると、まもなくメールで許可のご返事を頂きました。
その内容に驚かされました。
「・・・・・・・・・・・・・・・・
今年もヨ-ロッパ行きの事で、色々考える事がいっぱいでパニックです、
毎年の事なのに、虚空の創った曲の事、中途半端な演奏が出来ないので、
 
先生のメ-ルでの文章、拝読させて頂きました。
このような事で虚空の写真を掲載して頂く事を虚空も喜んでると思います、
生前から先生の事、父から聞かされてました、これからも宜しくお願い致します。
 
虚空没から今日で10年経ちました。
今日は命日(6月2日)でお参りの帰りに電話を頂いたのも何かの縁ですよね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  」
 
何と、6月2日は、先生の10年のご命日に当たっていたのです。
何も知らずに、ご連絡差し上げた奇遇を思わずにはいられませんでした。
このことを、90歳になられたお母様にお伝えしたら、とても喜んで下さったそうです。
不思議ですね。
10年3650日の中のたった一日に遇うなんて神仏のお導きのようでした。
ありがたく掲載させていただきます。

吉田秀和さんご逝去

月曜日, 5月 28th, 2012

毎週日曜日のNHKFMに流れる吉田秀和さんの「名曲の楽しみ」が、これからは聴けない。

あのような格調が高く、しかも肩の凝らない話しぶりの人は、もう出まい。

吉田秀和さんが98歳のご高齢でお亡くなりになった。

私が吉田さんを知ったのは17,8だから40年も昔の話で、吉田さんが私位の年格好だった。

まだ、武満徹がそれほど有名でなかった頃、遠山一行さんが批判し、吉田さんが評価していた。

「20世紀音楽研究所」を柴田南雄さんたちと立ち上げころで、

私は盛んにウェーベルンなどの十二音音楽の前衛を熱心に聴いていた。

新進の音楽家を育てると共に、古典の演奏に対しての地味深い評論は、

決まり文句の評論語でない、肩の力の抜けた、しかもインテリジェンスの富んだ語句に、

深いヨーロッパ文化の香りと奥行を感じたものだった。

若い頃、中原中也や小林秀雄らとの交流が、真贋を見分ける眼に磨きをかけただろう。

それと、温かい人間を見る目を通した語り口に、息の長さが感じられた。

それが長寿にも通じたに違いない。

そして、先日も、バリトン歌手、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ氏(86)の訃報が届いた。

こうして国内外の巨星逝くの報が、一層寂しさを募らせる。

次第に青春の1ページが虚空に消えてゆく。