まほろばblog

Archive for the ‘文化’ Category

女流仏画師 国井愉希子さん

金曜日, 2月 10th, 2012

厚別の石丸さん(以前まほろばで働いていました)が、今画に凝っていて、

洋画と仏画、二つながら修学されているという。

なかでも、「仏画の先生は、国井愉希子さんという女性でとても美人なので、

社長、是非会ってください」と、先日一緒に作品を携えて来店された。

確かに、美人でしかも若いのには驚かされた。

この方が、何故仏画を、しかもチベットのタンカを描かれるのか、不思議だった。

美術短大を出られたといっても、こんなカビの生えたような古色蒼然とした世界に

魅惑され足を踏み入れたというのは、やはり前世という世界があって、

向うから引き継がれ今在るのかな、と思ったりもする。

その精緻なタッチと、清浄な気が立ち上がる画面は、人をして聖化させるに違いない。

数年、ネパールの古都バクタプルで素晴らしい先生について、研鑽を積まれた。

仏教には、女人成仏や女人禁制という男尊女卑の風習があり、カースト制度のように厳しい。

だから、仏画を女性が描くということは、今まであり得なかったという。

それが、異国外国の女性ということで、その枠が何故か外され、入門が許されたのだ。

これも、時代の為せるわざか、チョッとしたキッカケが、人ばかりか、世界をも突き動かす。

国井さんの登場で、広く門戸が開かれ、文化の伝承を押し拡げるであろう。

彼女のこれからのご活躍を祈りたい。

お会いした即日で、まほろばでの個展と教室を開催されることが早々と決定した。

6月7日から11日まで「仏画個展」、(8,9,10日は「感謝デー」)、

11日に写仏教室を開く。

これを、キッカケに定期的に、開催されるようになるのかもしれない。

すでに市内各所でも、写仏・仏画教室を開かれおられるので、ご都合のつかれる方々はご参加ください。

先日、浜松大の高田明和教授が、「責めず、比べず、思い出さず」の本で、鬱の脱出法の一つに、

意外に、読経・念仏、写経・写仏、座禅などの仏教修行が、大脳生理学的にも、

極めて効果のあることを書いていらした。

仏画はきっと鬱積した心の暗雲を飛ばしてくれるのだろう。

面白いことに、この高田先生、著名な医師でもあり、

長寿、長生きには、肉を食べなさい、と生理学・栄養学的にも進言している。

まほろば食養理論と通ずるところがあるのだが、

ちなみに、チベットのラマ僧は肉食である。野菜が生産されないのだ。

かように、チベット仏教の仏画(タンカ)の背景には、混沌としたカオスの世界がある。

如来仏とダキニの男女交合図のタンカなどは、聖なる宗教としてビックリするのだが、

これには、陰陽の大調和、慈悲と智恵の融合、生死の祝福などの哲学思想が隠されている。

そんな意味でも、仏画を描くことで、この宇宙の深層を垣間見ることが出来る。

いわば、悟りへの扉が開かれるのであろう。

札幌の身近で、なかなか見ることも描くことも出来ないチャンスが今到来している訳だ。

是非、6月には、生の原画をご覧になってください。

また、購入も可、さらに、最終日には、描くことが出来ますので、今からご予約をください。

国井先生とも、ゆっくりお話しすることが出来ますので、お楽しみに。

名碗を観る

木曜日, 2月 2nd, 2012

当代きっての目利きと言われている林屋晴三氏の近著「名碗を観る」を読んでみた。

陶芸家にとっての最終的難関は茶碗にあると言う。

確かに、一碗を一城と取り替えるという逸話があるように、

大名をして命をかけるほど魅惑せしめる何かが潜んでいるのだろう。

「一壺中に天外を観る」とは真実の話しなのだ。

半世紀以上、古今東西の茶碗を見続けて来た林屋氏にとって、

その心眼は、あらゆるものに通じる活眼となっていた。

長い文中、最後の対談で、チラリと本音を明かされた。

それは、私が常に抱いていた事でもあった。

前後は割愛させてもらったが、要は情緒と感覚の違いではないかと思う。

現代の何事でもいえることだが、ことに芸術においても、

目先の感覚や感性ばかり取り沙汰されて、依って来るところの心が見えなくなった、

とでも言えるのだろうか。

そんな意味でも、胸の閊えが取れた一瞬でもあった。

表現が先にあるのではなく、自ずと後に現れるものなのだ。

現代に求める茶碗とはどういうものですか?

長次郎でもなく、オブジェの前衛でもなく、今を生きる感覚を

持つものが存在するはずだということですか?

林屋…そうではなくてね。

若い人が最近やたらに茶碗を造っていますが、なにか表面的です。

前衛的な造形性を求めた浅い自己主張なんです。

碗をオブジェとして造っているのなら構わないけれど、茶碗として造っている

なら、一碗の茶を飲ませることへの愛情がほしいと思うんです。

茶碗というものは、人に一碗の茶を飲んでいただく

という思いの中から出ないとだめなので、心の豊かさから生まれたものでないと。

表現者としての白己主張を打ち出そうとする茶碗では、

濃茶を練ってみても、どうしてもおいしい茶が点たない。

茶碗においしい茶を点てさせるものがないのでは困るのです。

茶巾で拭いても、ざらざらして中側をまわらない。

自分の表現だけがあって、茶碗として成立するものを捨てていると思わざるを得ない。

みんな今に生きているんですが、理想の茶碗とは何ぞや

という点では何人もそこへ行つていない。

だから僕がやるより仕方ないと思うんだ。・・・・・・

映画 「孔子の教え」

木曜日, 1月 5th, 2012

今、空前の孔子ブームだという。

若者にとって、孔子って何者だ、といわれる時代。

あれほど本国中国で、批林批孔で荒れ繰れた文化大革命。

赤軍派、四人組・・・私の青年期は激動の大陸で、古典文物は悉く破壊し尽くされた。

当時、孔子に憧れ、古琴を習っていた私は、留学は叶わぬ夢であった。

共産主義と孔子儒教は相容れぬものである。

それでも、その当時、私は汪兆銘政府長官の胡蘭成先生や

碩学の安岡正篤先生の謦咳に接する事ができた。

それと故川合信水先生から孔子の真精神について学んだことが大きかった。

その後、大学・中庸や春秋などは愛読書となっていた。

もう40年も前の事で、今では書棚に眠っているが、

青年時の白紙の状態に、古典に触れ、大人(たいじん)に接した事は、自分の財産となった。

何年か前、彼の中国で「孔子」の映画が完成された、と聞いていたが、

一向に封切の気配がなかった。

それが、この正月、ふと見た映画欄にそれらしきものが、掲載されていた。

早速観に行ったが、これは活劇である。

古色蒼然とした埃を被った2500年前が、豁然として現代に甦る。

そこには生き生きとした孔子とその弟子達が描かれて、

スペクタクルな戦闘シーンも含めて、乏しい想像の世界でしか描けなかった

時代背景や人物、文物が鮮やかに甦る。

日本では到底成し得ない時代考証や資料が山のように揃っているのだろう。

端然とした孔子の他に、策士・軍事家としての顔は世間の辛酸を嘗めた実像なのだ。

還暦近くして生国、魯を追放され、諸国を歴訪する果てしなき旅。

それがどのようなものであったか、想像を絶していたが、映像を見て、

困難を極めていた事がリアリティをもって迫ってくる。

何より、時代は変わるとも、人間のサガは変わらないという歴史は何とも哀しくも虚しい。

http://www.koushinooshie.jp/

何はともあれ、一見の価値あり。

孔子の教え云々はさておき、その置かれた時代と風景と文化と人を観ておくだけでも、

論語は生き生きした、現代の新書となりうることを知るだろう。

うさぶろうさんの本が

金曜日, 12月 30th, 2011

 

先日、「うさと」のうさぶろうさんから、本が送られて来た。

「あいをよる おもいをつむぐ」と題された初めての本。

彼の今までの思いの丈が、存分に行間にあふれる。

来年2月、まほろばでの「うさと展」では、彼のお話し会が

ひょとしてあるかもしれない。

なくても、何時か開こうね、と話し合っている。

その時を楽しみにしてくださいね。

花を伝える

金曜日, 12月 30th, 2011

雑誌「HOウーマン」1月号特集は『気になる女性の働く現場』。

その中に、花作家・花育コーディネーター 森直子さんが紹介された。

「花を通じて心を育て 命の大切さを 子どもたちに」を生きるテーマに、

花を活け、花と語り、花を伝える・・・・・。

NHK文化センターでも教えられています。

是非ドアを叩いてくださいね。

結城さんルーブルに 2

金曜日, 12月 30th, 2011

ルーブル美術館でアイヌ神話を語った結城さん。

かつて共生していた人と自然。

裏切った人間は、その姿なき仕返しに苦悩する。

簡潔な神話にこそ、複雑な現代社会を紐解く鍵が潜んでいる。

詩吟「雨ニモマケズ」・・・・・

金曜日, 12月 16th, 2011

個人的なことで、甚だ恐縮なのだが、

この2月に、まほろばのお客様で、80歳にもなられる茶道の女流先生から、

「一生の頼みだから」と説き伏せられて、已む無く入会せられた詩吟の会。

先日、その会の宗家の記事が新聞に掲載された。

大変苦労された方で、独り芸術で身を立てるという厳しい道を選ばれた。

記事の中で、まほろばの近くの精神医療の太田病院でもう25年も長く、

患者さんに詩吟を教え伝えていらっしゃるという。

習うごとに徐々に、患者さんが回復せられ、声をお腹から出す効用があるという。

生理的にも副交感神経が活発になって、精神が安定する。

我々の日常、なかなか思い切って声を出す機会がないので、健康法としても良いのだろう。

さらに、漢詩や和歌の古典に親しめて、情操を涵養するに、格好な趣味の門となるに違いない

http://homepage2.nifty.com/SHIGIN/homepage/kyounoginei.html (「雨ニモマケズ」)

http://homepage2.nifty.com/SHIGIN/ (東峰流詩吟HP)

http://sapporoohtahp.blog32.fc2.com/blog-entry-310.html (医療法人『耕人会』札幌太田病院HP)

寺田本家さんから

木曜日, 12月 15th, 2011

千葉の寺田本家さん。

大震災と原発事故で、離れているとはいえ、

柏が放射能スポットになり、その近辺の蔵元。

一時心配しましたが、無事超えられた御様子。

ここも、ホッと胸を撫で下ろし、伝統醸造が末永く

幾末までも続きますように・・・・・祈ります。

酛摺(もとす)り作業

生酛(きもと)仕込みの特徴。

木桶に入った蒸米・麹・仕込み水を櫂棒で摺り卸し、

微生物が活躍しやすい環境を整える。

蔵人たちが、目出度めでたの酛摺り唄を唄い、微生物と響き合うとき。

別名、山卸し作業とも呼ぶ。

結城さんルーブルに・・・・!

水曜日, 12月 14th, 2011

結城さんが、遂にパリの晴れ舞台ルーブル美術館でアイヌ語の語りをしました。

皆さんから拍手喝采を受けたとか。

とても嬉しいことです。

「百歳」から

火曜日, 12月 13th, 2011

あの『くじけないで』の柴田トヨさんが、

第二詩集『百歳』を出版された。

『挫けないで』が150万部突破のベストセラーとなり、

台湾、韓国、オランダで翻訳され、さらにイタリア、スペインでも刊行されるという。

世界中の人々の心を癒し始めた。

声高に絶叫する平和より、か細い声のささやきが心に伝わる。

かの老子は「大音は微声なり」と説いた。

百歳という年月の重み、捨てた軽みが、

読む人をしてホッとさせ、ポッと生きる灯を点す。

そんな中、震災の人々への寄せる詩が心を呼び起こす。

被災者の皆様に

あぁ なんという

ことでしょう

テレビを見ながら

唯 手をあわすばかりです

皆様の心の中は

今も余震がきて

傷痕がさらに

深くなっていると思います

その傷痕に

薬を塗ってあげたい

人間誰しもの気持です

私も出来る事は

ないだろうか?考えます

もうすぐ百歳になる私

天国に行く日も

近いでしょう

その時は 陽射しとなり

そよ風になって

皆様を応援します

これから 辛い日々が

続くでしょうが

朝はかならず やってきます

くじけないで!