「受け継ぐ中国料理の伝統」
月曜日, 10月 24th, 2011(さとう・はつえ=正宗魯采傅人特級大師)
『致知』2006年5月号より
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済南をご存じでしょうか。
北京の南三百五十キロ、黄河のほとりにある中国山東省の省都で、
戦前は上海のように開かれた国際都市でした。
私はそこで生まれ、育ちました。
両親は宮城県仙台の出身ですが、
済南に渡り会社を営んでいたのです。
子どもの頃の楽しみは屋台や露店めぐりでした。
めぐり歩くだけでなく、焼餅や饅頭を買って
口をもぐもぐさせるのです。
家は人の出入りが多く、父はコックを雇っていました。
どんなふうに料理するのか、その仕事ぶりに私は興味津々でした。
中国では「ニンチーフワンチーラマ」(ご飯を食べましたか)が
「ニンハオ」と同じような挨拶の言葉になります。
中国人は食を大事に楽しむ国民なのです。
いつか私も同じ感覚を身につけたようです。
ところが私が十二歳になった昭和十二年、
日中戦争が始まりました。
済南では日本人も中国人も分け隔てなく平和に暮らしていて
戦争など思ってもみないことでしたから、
知人や使用人の中国人と思わず顔を見合わせてしまいました。
それでも日本人は帰国することになり、
私たち一家は両親の郷里の仙台に戻りました。
しかし、済南に危険がないと分かると、
ほどなく両親は中国に帰りました。
ただし、私だけは残されました。
やはり教育は日本でと考えたのでしょう。
仙台第二高女に入学し、寄宿舎生活をすることになったのです。
しかし、私は耐えられませんでした。
原因は食事です。
寄宿舎のそれが口に合わず、
済南の食べ物が恋しくてならないのです。
一年我慢しましたが、どうにもたまらずに、私も中国に戻りました。
済南には日本軍が進駐していて、
以前よりは緊張感がありましたが、
日常生活にさほどの変化はありませんでした。
よくは分かりませんが、中国人社会に顔の広い父は
日本軍と蒋介石の国府軍と毛沢東の共産党軍の間を取り持って、
戦闘が起こらないように努めていたようです。
そんな中で、私は済南の女学校から
女子師範学校に進みました。
もっとも勉強はそっちのけで、関心があるのは
もっぱら料理。中国人家庭の台所をのぞいたり、
屋台で出合った内臓料理に夢中になったり。
そんなことばかりしていました。
それが分かった時、父は激怒しました。
しかし、父も変わっていたと思います。
私の料理への関心が分かると、
済南で一番大きい泰豊楼に連れて行き、
知り合いのオーナーに私を厨房で使ってくれるように頼んだのです。
頼みは受け入れられました。
もっとも、女は厨房に入れないという掟のようなものがあり、
最初、老板(厨房の親方)の態度は冷たいものでした。
でも、どんな下働きでも私には楽しくてなりません。
そんな私の様子に、これは本気だと老板も認めたのでしょう。
厳しく鍛えてくれるようになりました。
私は十七歳でした。
それからの私は修業ひと筋でしたが、
生活面ではいろいろなことがありました。
私は父の厳命で、茨城出身の将校と結婚しました。
もっとも新婚生活は二か月ほどで、
彼は戦場に行ってしまいましたが。
また父がにわかに健康を損ね、亡くなってしまいました。
そして終戦です。
日本に帰らなければなりません。
それを知った老板は、できるだけ引き揚げを延ばすように言い、
山東料理の真髄である魯采(ろさい)を私に叩き込みました。
それは怖いほどでした。
私が作った料理を試食した老板が、
「確かな舌を持っているね」とうなずいてくれた時の嬉しさは、
いまでも忘れられません。
日本の土を踏んだのは昭和二十三年四月でした。
結婚生活は破綻しました。
彼は戦場で手を血で汚すようなことがあり、
心に傷を負っていたのです。人格が一変していました。
私は上京し、いくつかの仕事を経て、
昭和四十四年、高田馬場に小さな店を出しました。
その時、「きみには料理がある」と
力づけてくれたのがいまの夫です。
夫はそれまで勤めていた都庁を辞め、
私のもとで一から魯采の修業を始めたのです。
真の山東料理は砂糖もラードも、
もちろん化学調味料も使いません。
味付けは塩と天然の香辛料だけ。
だからこそ食材の美味が最大限に引き出され、
身体にいい料理になるのです。
その後、店は新宿二丁目、赤坂と移りました。
美味しさが評判になり、有名な方々も
顧客になってくださって繁盛しました。
店を大きくしたらとかチェーン展開をしたらとか
勧められたりもしました。
しかし、そのつもりはありません。
老板に叩き込まれた味を守っていくのが使命と考えているからです。
私が済南に里帰りするような感じで初めて旅行したのは、
昭和五十六年でした。
国共内戦と文化大革命の影響は大きく、
何よりも驚いたのは、老板に教わった山東料理が
砂糖もラードも使うというふうで、
すっかり失われていたことです。
その老板にはどうしても会いたかったのですが、
行方知れずでした。
私と夫が山東料理の真髄を伝えていることを知り、
中国山東省政府は魯采特級大師を公認、
正宗魯采傅人の称号を贈ってくれました。
私はいま、四谷で予約客だけをとる小さな店を出し、
また料理教室で教えています。
あの老板に叩き込まれた山東料理の魯采を日本で守り、
ふたたび中国に蘇らせる。
そうなったら、行方知れずの老板も
どんなに喜んでくれるでしょう。
そんなことを夢見ているのです。