まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「息子からの弔辞」

水曜日, 8月 14th, 2013
    井坂 晃(ケミコート名誉会長)

             『致知』2004年11月号
                連載「致知随想」より

└─────────────────────────────────┘

 この夏の七月二十九日、弔問のため九十九里に赴いた。
 弔問客は四十人くらいであったが、
 私にとってこの葬式は、抑えがたい悲しみと感動が相俟って、
 心に強く焼き付いた。

 故人は、当社社長・中川の義弟・菊崎氏である。

 中川の説明によると、故人は四十九歳。
 妻(中川の妹)、高校三年の息子、
 そして中学二年の娘を残して逝ってしまったのである。

 故人は二十五日日曜日の昼過ぎに、
 不運にも誰もいない自宅で倒れてしまったという。

 奥さんはその日たまたま仕事に出ていた。
 成東高校の三年生で、サッカー部のキャプテンを務める長男は、
 練習のためやはり出ていた。

 片貝中学二年の長女も、
 所属するバスケットボール部の活動で出かけていて、
 家族全員留守の間の出来事であった。

 私が中川からその知らせを受けたのは、
 翌二十六日の朝であった。
 午後には、通夜は二十七日の夜、葬儀は二十八日と決まったようだ。

 ところが、夕刻過ぎに再び中川から電話が入った。

  「実は、誰もいない所で死んだ場合は、
   司法解剖をしなければならないそうです。
   ですから、まだ葬式の日程を決められませんので、
   決まり次第また連絡いたします」

  とのことだった。

 司法解剖の結果、死因は心不全と分かった。
 日程を改め、通夜は二十八日午後七時、
 葬儀は二十九日午前十一時から行われることになった。

 その間、中川から菊崎氏の横顔を少し聞かされていた。
 北海道出身で、高校時代は野球部に所属し、
 優秀な選手であったこと。

 高校卒業後は野球ではなく、料理の修業のために
 ドイツへ三年間留学したこと。
 お酒が好きだったこと……。

 それにしても、四十九歳という若さで亡くなった
 本人の無念を思うと、心が痛む。

 二十九日は、小笠原諸島付近に大型の台風があって、
 珍しく西にゆっくり進んでいるとのことだった。

 その影響で、朝のうち房総半島は
 時折にわか雨に見舞われる悪天候だったが、
 十時前には雨も上がり、
 びっくりするほど澄み切った青空が広がった。

 真っ白な浮き雲、灰色の雨雲が、
 時折夏の強い日差しを遮りつつ勢いよく流れていった。

 十一時少し前に、葬式の会場である
 九十九里町片貝の公民館に入った。
 会場の大部屋は畳敷きで、棺の置かれた祭壇の前には、
 すでに遺族と親戚の方々が座していた。

 私は中川夫婦に黙礼をして後方に並んでいる
 折りたたみ椅子に腰掛けた。

 祭壇の中央では、故人の遺影が
 こちらを向いてわずかに微笑んでいる。

 ドキリとするほど二枚目で、
 その表情からは男らしさが滲み出ていた。

 会場には私のほかに高校生が五、六人、
 中学生の制服を着た女の子が数人、
 そして私のような弔問客が三十人くらい座していた。
 広間に並べられた座布団の席はまばらに空いていた。

 葬式は十一時ちょうどに始まった。
 右側の廊下から入ってきた二人の導師が座すと、
 鐘の音とともに読経が始まった。

 後ろから見ると、二人ともごま塩頭を奇麗に剃っていた。

 読経の半ばで焼香のためのお盆が前列から順々に廻されてきた。
 私も型通り三回故人に向けて焼香し、
 盆を膝の上に載せて合掌した。

 しばらくして全員の焼香が終わると、
 進行係の人がマイクでボソリと「弔辞」とつぶやいた。

 名前は呼ばれなかったが、
 前列の中央に座っていた高校生らしい男の子が立った。

 すぐに故人の長男であることが分かった。
 私には、彼の後ろ姿しか見えないが、
 手櫛でかき上げたような黒い髪はばさついている。
 高校の制服らしき白い半袖シャツと
 黒い学生ズボンに身を包み、白いベルトを締めていた。

 彼はマイクを手にすると故人の遺影に一歩近づいた。

 「きのう……」。

  言いかけて声を詰まらせ、
  気を取り直してポツリと語り始めた。

 「きのうサッカーの試合があった。見ていてくれたかなぁ」。

  少し間をおいて、

 「もちろん勝ったよ」。

 二十八日が葬式であったら、
  彼は試合には出られなかった。

 司法解剖で日程が一日ずれたので出場できたのである。
  悲しみに耐えて、父に対するせめてもの供養だとの思いが、
 「もちろん勝ったよ」の言葉の中に込められていたように思えた。

「もう庭を掃除している姿も見られないんだね、
  犬と散歩している姿も見られないんだね」

 後ろ姿は毅然としていた。
  淋しさや悲しみをそのまま父に語りかけている。

「もうおいしい料理を作ってくれることも、
  俺のベッドで眠り込んでいることも、もうないんだね……」

 あたかもそこにいる人に話すように、

「今度は八月二十七日に試合があるから、上から見ていてね」

 その場にいた弔問客は胸を詰まらせ、ハンカチで涙を拭っていた。

「小さい時キャッチボールをしたね。
  ノックで五本捕れたら五百円とか、
  十本捕れたら千円とか言っていたね。

  二十歳になったら『一緒に酒を飲もう』って言ってたのに、
  まだ三年半もある。

 クソ親父と思ったこともあったけど、大好きだった」

 涙声になりながらも、ひと言、ひと言、
  ハッキリと父に語りかけていた。

「本当におつかれさま、ありがとう。
  俺がそっちに行くまで待っててね。さようなら」

 息子の弔辞は終わった。

 父との再会を胸に、息子は逞しく生き抜くだろう。

 「どん底の淵から私を救った母の一言」

火曜日, 8月 13th, 2013
         奥野 博(オークスグループ会長)

                『致知』1998年8月号
                  特集「命の呼応」より 

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【記者:昭和42年、40歳のときに経験された倒産が、
     今日の奥野会長の土台になっているようですね】

  倒産が土台とは、
  自分の至らなさをさらけ出すようなものですが、
  認めないわけにはいきません。

  戦後軍隊から復員し、商社勤務などを経て、
  兄弟親戚に金を出してもらい、
  事業を興したのは30歳のときでした。

  室内設計の会社です。
  仕事は順風満帆でした。
  私は全国展開を考えて飛び回っていました。

  だが、いつか有頂天になっていたのですね。
  足元に忍び寄っている破綻に気づかずにいたのです。
  それが一挙に口を開いて。

【記者:倒産の原因は?】

 「滅びる者は、滅びるようにして滅びる」

  これは今度出した本の書き出しの一行です。

  倒産の原因はいろいろありますが、
  つまるところはこれに尽きるというのが実感です。
  私が滅びるような生き方をしていたのです。

  出資者、債権者、取引先、従業員と、
  倒産が社会に及ぼす迷惑は大きい。
  倒産は経営に携わる者の最大の悪です。

  世間に顔向けができず、私は妻がやっている
  美容院の2階に閉じこもり、
  なぜこういうことになったのか、考え続けました。

  すると、浮かんでくるのは、
  あいつがもう少し金を貸してくれたら、
  あの取引先が手形の期日を延ばしてくれたら、
  あの部長がヘマをやりやがって、
  あの下請けが不渡りを出しやがって、
  といった恨みつらみばかり。

  つまり、私はすべてを他人のせいにして、
  自分で引き受けようとしない
  生き方をしていたのです。

  だが、人間の迷妄の深さは底知れませんね。
  そこにこそ倒産の真因があるのに、
  気づこうとしない。

   築き上げた社会的地位、評価、人格が倒産によって
  全否定された悔しさがこみあげてくる。

  すると、他人への恨みつらみで
  血管がはち切れそうになる。
  その渦のなかで堂々めぐりを繰り返す毎日でした。

【記者:しかし、会長はその堂々めぐりの渦から抜け出されましたね】

  いや、何かのきっかけで一気に目覚めたのなら、
  悟りと言えるのでしょうが、凡夫の悲しさで、
  徐々に這い出すしかありませんでした。

【記者:徐々にしろ、這い出すきっかけとなったものは何ですか?】

  やはり母親の言葉ですね。

  父は私が幼いころに死んだのですが、
  その33回忌法要の案内を受けたのは、
  奈落の底に沈んでいるときでした。

  倒産後、実家には顔を出さずにいたのですが、
  法事では行かないわけにいかない。
  行きました。

  案の定、しらじらとした空気が寄せてきました。
  無理もありません。

  そこにいる兄弟や親族は、
  私の頼みに応じて金を用立て、
  迷惑を被った人ばかりなのですから。

【記者:針の莚(むしろ)ですね】

  視線に耐えて隅のほうで小さくなっていたのですが、
  とうとう母のいる仏間に逃げ出してしまいました。

【記者:そのとき、お母さんはおいくつでした?】

  84歳です。

  母が「いまどうしているのか」と聞くので、
 「これから絶対失敗しないように、
  なんで失敗したのか徹底的に考えているところなんだ」
  と答えました。

  すると、母が言うのです。

 「そんなこと、考えんでもわかる」

 私は聞き返しました。

 「何がわかるんだ」

 「聞きたいか」

 「聞きたい」

 「なら、正座せっしゃい」

  威厳に満ちた迫力のある声でした。

(八十四歳のお母さんが)

 「倒産したのは会社に愛情がなかったからだ」

  と母は言います。

  心外でした。

  自分のつくった会社です。

  だれよりも愛情を持っていたつもりです。

 母は言いました。

 「あんたはみんなにお金を用立ててもらって、
  やすやすと会社をつくった。

  やすやすとできたものに愛情など持てるわけがない。

  母親が子どもを産むには、死ぬほどの苦しみがある。

  だから、子どもが可愛いのだ。

  あんたは逆子で、私を一番苦しめた。
  だから、あんたが一番可愛い」

  母の目に涙が溢れていました。

 「あんたは逆子で、私を一番苦しめた。
  だから、あんたが一番可愛い」

  母の言葉が胸に響きました。

  母は私の失態を自分のことのように引き受けて、
  私に身を寄せて悩み苦しんでくれる。
  愛情とはどういうものかが、痛いようにしみてきました。

  このような愛情を私は会社に抱いていただろうか。
  いやなこと、苦しいことはすべて人のせいにしていた
  自分の姿が浮き彫りになってくるようでした。

 「わかった。お袋、俺が悪かった」

  私は両手をつきました。

  ついた両手の間に涙がぽとぽととこぼれ落ちました。
  涙を流すなんて、何年ぶりだったでしょうか。
  あの涙は自分というものに
  気づかせてくれるきっかけでした。

「人生のメンバー外になるな」

月曜日, 8月 12th, 2013
 森 士(もり・おさむ=浦和学院高等学校硬式野球部監督)

              『致知』2013年9月号
               致知随想より

└─────────────────────────────────┘

二〇一三年四月三日、春の甲子園で
我われ浦和学院高等学校は初めて頂点に立った。

苦節二十二年――。
振り返るといろいろなことが頭の中を駆け巡る。

その都度目の前に敵が現れ、
思うようにいかないことの連続であったが、
生徒や家族、守るべき存在がいたからこそ
頑張ってこられたのだろう。

今回優勝できた一番の要因は私自身の意識にあると思う。
まだまだ未熟だが、やはりトップに立っている
人間の器を広げないと組織は伸びていかない。

教育とは自分自身を磨くことだと日々実感している。

甲子園優勝は夢のような瞬間だった。

しかし、それ以上に私が誇っていることは、
この二十二年間、春夏秋とある埼玉県大会で
決勝戦に行っていない年が一度もないということだ。

毎年生徒が入れ替わる高校野球では、
時としていい選手が集まらないこともある。

だからといって、「今年は諦めて来年勝てばいい」という
チームづくりは一切してこなかった。

集まってくれた生徒が常に主人公であり、
とにかくいま目の前の代に懸ける。
その積み重ねが成果に繋がったのではないだろうか。

私が今日あるのは上尾高校時代の恩師・野本喜一郎監督が
いてくださったからに他ならない。

大学時代、私は怪我に泣かされ、
このまま選手として続けるか、指導の道に進むか悩んでいた。

野本監督は上尾高校から浦和学院高校に移られていたが、
そんな時、野本監督から
「もし指導者を志すなら、手伝わないか」と
声を掛けていただいた。

ところが、である。

大学四年の時、野本監督はすい臓がんで亡くなってしまった。
その年、浦和学院は初の甲子園出場を果たし、
ベスト4まで勝ち進んだのだが、秋の大会では一回戦負け。

選手たちは恩師を亡くした悲しみに
打ちひしがれていたようだった。

そんな彼らの姿を見た時に、学校さえ違うものの、
同じ師のもとに集った一人の人間として、
残された後輩たちに何か手助けができないだろうかと思い、
師の亡き後の浦和学院高校を守り立てようと決めた。

五年間のコーチ指導を経て、
監督に就任したのは一九九一年、二十七歳の時。

以来、負けたら終わりという勝負の世界に
ずっと身を置いてきた。

その中で何が勝敗を分けるのかと考えると、
それは瞬間的集中力の継続、に尽きるのではないかと思う。

私はよく生徒たちに

「野球とは人生一生のドラマを二時間に凝縮したもの」

と言っている。

その時その時の決断が後の人生を大きく左右するように、
野球の試合も一瞬のパフォーマンス次第で
状況は目まぐるしく変化していく。

例えば……

「果決」こそリーダーの条件

月曜日, 8月 12th, 2013
         松川昌義(日本生産性本部理事長) 

                『致知』2013年9月号
                 連載「私の座右銘」より

president[1]
心の支えとなる座右の銘を持つことは、
山あり谷ありの人生を歩んでいく上で
非常に大事なことだと思います。

特に逆境に立たされた時、そういう言葉が自分を鼓舞し、
果敢に立ち向かっていく力を与えてくれるのです。

組織を導くリーダーとして、
私が常に反芻(はんすう)してきたのは、
陽明学者・張詠(ちょうえい)の言葉です。

「事に臨むに三つの難あり。

 能く見る、一なり。

 見て能く行う、二なり。

 当に行うべくんば必ず果決す、三なり」

事に臨む、変化に対応していくには
三つの難しいことがあります。

一つは対象をよく見て
的確に判断するための観察力、調査力。

二つ目はそれを行動に移す実行力。

しかしそれだけでは不十分で、
その上にさらに重要なのが果決であるということです。

これは、日本生産性本部における私の上司であり、
人生の師とも仰ぐ牛尾治朗会長が、
安岡正篤先生から教わった言葉として
お話しくださったものです。

安岡先生は、果決という言葉の意味を、
次のように説いてくださったそうです。

果物の木に咲いている花を
すべて実らせてしまってはいい果実は採れない。

どの花を残すかを考え抜き、勇気を持って決断し、
選んだ花から立派な実を育てなければならないと。

よし、これでいこう。
折しも強い危機の最中にあった私の心に、
この言葉はストレートに響き、肚を固めることができたのでした。

それは、私が日本生産性本部の理事長に就任した
二年前のことでした。

その年の三月に発生した東日本大震災により、
予定していたプロジェクトの多くが中止や規模縮小を
余儀なくされ、経営は赤字転落。

このまま手をこまねいていては
生産性本部の存続そのものが危うくなる――
損傷した日本生産性本部のビルを見上げながら
強い危機感を抱いていた頃に教わったのが、
この果決という言葉でした。

日本生産性本部は昭和三十年、
経済同友会の設立に尽力された郷司浩平さんが、
当時まだ生産性の低かった日本企業の近代化を
促進するために設立された財団法人です(現在は公益財団法人)。

しかし、その後社会情勢は大きく変わり、
時代にそぐわない事業が増えてきたにもかかわらず、
旧弊を引きずりなかなか思い切った改革に
踏み出せずにいました。

理事長就任前から牛尾会長の熱心なご指導を受け、
ピンチをチャンスに変えよと繰り返し
説いていただいていた私は、
この震災を機に事業再生に
根本から取り組もうと決意を固めたのです。

そこで六月に理事長に就任すると、
私は「事業再生タスクフォース」を立ち上げ、
既存の百の事業を徹底的に精査し、
各々の経常利益まで分析しました。

その分析結果をもとに、
私は一つひとつ存続の可否を決断。

まさしく果決を実践したのです。
それは容易な作業ではなく、考えに考え、
思い悩んだ末に決断を下した体験から、
私は果決という言葉の重さを実感したのでした。

「二宮金次郎の幸福論」

土曜日, 8月 10th, 2013
          中桐万里子(二宮尊徳七代目子孫・リレイト代表) 

                『致知』2013年9月号
                 特集「心の持ち方」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201309_pickup.html#pick1

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金次郎の教えで有名な
「たらいの水の話」というのがありますね。

水を自分のほうに引き寄せようとすると
向こうへ逃げてしまうけれども、
相手にあげようと押しやれば自分のほうに戻ってくる。
だから人に譲らなければいけないと。

けれどもこの話には実は前段があるのです。

人間は皆空っぽのたらいのような状態で生まれてくる、
つまり最初は財産も能力も何も持たずに生まれてくる
というのが前段にあるのです。

そしてそのたらいに自然やたくさんの人たちが
水を満たしてくれる。

その水のありがたさに気づいた人だけが
他人にもあげたくなり、
誰かに幸せになってほしいと感じて
水を相手のほうに押しやろうとするんです。

そして幸せというのは、自分はもう要りませんと
他人に譲ってもまた戻ってくるし、
絶対に自分から離れないものだけれども、
その水を自分のものだと考えたり、
水を満たしてもらうことを当たり前と錯覚して、
足りない足りない、もっともっととかき集めようとすると、
幸せが逃げていくんだというたとえ話だと祖母から教わったんです。

それから金次郎は、偉大な思想家、経済学者、農政家と
いわれていますが、彼はやっぱり農民だった、
土と一緒に生きた人だったと凄く感じるんです。

例えば金次郎が残した道歌にこういうものがあります。

「米まけば 米の艸(くさ)はえ 米の花
 さきつゝ米の みのる世の中」

米を植えれば米が実るという
当たり前の道理を歌っているんですが、
金次郎はこの歌の米の部分を茄子や麦や芋や
あらゆるものに置き換えて歌っていて、
とてもありきたりなんですが、そのことをとても楽しんでいる。

農業という自分の仕事に力を尽くしてきた人だ
というのが伝わってくるとともに、
とても大切なことを教えられるような気がするんです。

仕事をやっていると、自分は小さなことしかできていない
という焦りや、不安に苛まれることもあります。

けれども金次郎は常に目の前の現実、
自分の一歩を大事にし、愛おしみ、
感謝しなさいと教えてくれ、
浮ついてしまいがちな自分を
地面に引き戻してくれる人だと私は感じています。

※中桐さんが、作家の三戸岡道夫氏と語り合った
「二宮尊徳の残した教え~心田の開発こそあらゆる繁栄の本~ 」。

 『清、負けたらあかん』

金曜日, 8月 9th, 2013
貧乏と小児マヒを乗り越えた孝行社長の物語

    川辺 清・著
   
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    *     *

焼肉の「情熱ホルモン」をはじめ、
様々な事業を手がける「五苑マルシングループ」は、
今年4月で創業から50年を迎えます。

創業者の川辺清氏は昭和13年生まれ。
靴職人で博打好きだった父はほとんど家に帰ることなく、
母は生活費を得るために、
夫の行方を捜しながら4人の子供を育てたといいます。

清が2歳の頃のことです。
帰ってきた母がボロ布団の中でぐったりと横たわる清を見つけました。
布団をめくってみると、
紫色に腫れ上がった清の左足首からは膿が垂れ、虫が湧いています。
急いで病院に駆け込んだものの、
清の左足は完治することなく、
小児マヒの身となってしまいました。

その後、父の意向で清だけが
親戚の家に預けられることになります。
継ぎ接ぎだらけの服、小児マヒで骸骨のようになった左足、
それを引きずるようにして歩く姿がおかしいと、
近所の子供たちから毎日のようにいじめられました。

孤独でつらい日々でしたが、
清の心の中にはいつもやさしい母の存在がありました。
子供の頃から抱いていた
この「お母ちゃんを早く楽にしてあげたい」という思いは、
清が大人になってからも続きます。

中学を出た清は、
奈良の靴職人のもとへ奉公に出ました。
仕事は朝6時半から夜中の12時まで、
休みは月に2回のみでしたが、
早く一人前になりたい一心から懸命に働きました。
ところが2年経った頃、結核を患ってしまい、
不本意にも実家へと追い返されてしまったのです。

「俺は本当に駄目なやつだ」

絶望した清は自らの命を絶とうと迫り来る機関車に身を投げました。
ところが次の瞬間、清は傍らの草むらの上に倒れていたのです。
恐れに飛び退いたか、風圧に飛ばされたか、ともかく生きていました。
ふと線路を見ると、
ポケットから転がり出た5円玉が身代わりに機関車に潰され、
平べったくなっていました。

「俺は5円玉や。5円玉の輝きを見せてやる」

新たな決意に病魔も退き、無事年季を全うした清は25歳で会社を創業。
以来、異業種にも果敢に挑戦しながら、
経営者として事業に情熱を注ぐ一方、
子として母に孝養を尽くしました。

実話を元に記された川辺氏の半生が描かれた本書は、
遡ること平成5年に刊行された作品です。
この20年、川辺氏は正月になると本書を読み返し、
自身の原点を振り返ってきたといわれます。

親が子を思い、
子が親を思う姿が美しく綴られた感動の名作から、
親子関係や孝行のあり方について、
見つめ直してみるのはいかがでしょうか。

「売り手よし、買い手よし、世間よし、ふるさとよし」

木曜日, 8月 8th, 2013
     山本徳次(たねや名誉会長)

                『致知』2013年9月号
                 特集「心の持ち方」より

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田中 この後、近江八幡の日牟禮(ひむれ)八幡宮にある
  「日牟禮ヴィレッジ」のお店に案内していただけるということで、
   楽しみにしておりますが、オープン以来、大変な人気のようですね。

山本 おかげさまで十年前にオープンして以来、
   一日三千人から五千人の方々が八幡宮にやってきて、
   お店にも立ち寄っていかれます。

   日牟禮というのは近江八幡の古名で、
   古くは日牟禮の里と言いました。
   その近江八幡のシンボルである日牟禮八幡宮は、
   いわば商人道の原点とも言うべきお社です。

   彼らは他国へ行商に出る前と、帰った後に、
   必ずここでお参りをしていました。
   そして富を得ると、惜しみなく
   故郷の村の神社仏閣に寄進をしたといいます。

   よく「売り手よし、買い手よし、世間よし」で
   三方よしと言われますが、
   私は「ふるさとよし」の四方円満こそ、
   近江商人の行き方ではなかったかと感じるんです。

田中 なるほど、ふるさとよしですか。
   それは初めて伺いました。
   しかしよく八幡宮の境内にお店をつくろうと
   お考えになりましたね。

山本 これは至極単純な理由で、店を出す時には、
   神社仏閣やお城の近くなど、
   そう簡単に変わらないものの傍と決めています。
   百貨店なら主要店にといったふうに。

   そうすればなくなったり、移転する可能性が低いでしょう。
   揺るがないものの傍で、その地域地域に合った商いをするのも、
   近江商人の行き方です。

   また、お宮さんというのは、
   きょうは景気がよかったとか悪かったとかいう浮き沈みがない。
   いつも変わらない心、不変の心こそが大切だという考えで、
   その思い入れをより強くしたい、と。

   こんなに近くで商売をさせてもらっておきながら、
   あそこの店はええ加減で、と言われるようになったらあかんわね。
   やっぱり正真正銘の、裏表のない店でないと。

※事業永続・繁栄のヒントが満載の対談
「商いの道は人の道」。

「私の人生を救った言葉たち」

水曜日, 8月 7th, 2013
       長野 安恒(声楽家)
               『致知』2013年9月号
                 特集「心の持ち方」より

└─────────────────────────────────┘

これはいまになって分かることですが、
小学校六年で入院していた病院では、
治療ではなく、ただの実験台にされていました。

毎日毎日朝昼晩、ヨウ素剤を飲まされて、
基礎代謝と甲状腺へのヨウ素の集まり具合を測るだけでした。

私は消灯時間になるとトイレで必ず本を読んでいたのですが、
寝たら次の日、目が開かないんじゃないかと思って
夜寝るのが怖かったんです。
だから十二歳で、まだおねしょをしていました。

そうして一年が経った頃、
姉が東京・原宿の伊藤病院を紹介してくれて、
伊藤國彦先生に診てもらえれば治ると。

私は逃げるようにして入院先を後にし、
伊藤病院へ転がり込んだ。

そしてこの先生に診てもらったら治ると思った途端、
夜尿症がピタッと止まったんです。

【記者:気持ちの面が大きく作用しているのでしょうね】

そうです。人を生かしているものは肉体です。
医師は肉体の不具合を治してくれますが、
心のありようが物凄く大きく影響する。

絶望は死に至る病と言われますが、
実際にそのとおりなんです。

全くなんの希望もなかったところに一条の光が差した。
やがて手術は成功し、病気から解放されました。

そしてふっと振り返ると、地獄だと思っていた中に、
自分は多くの人に助けられて生きていたんだと気づいたんです。

入院中は小学五年生の食べ盛りで、
しかもお腹が空く病気ですから、
病院の食べ物だけじゃ到底足りないわけです。
お腹が空いてお腹が空いてしょうがない。

そんな中、昼三時頃になると、
いつもおやつをくれるおばさんがいたんです。

ただ本当に申し訳のないことに、
その方の名前も覚えていません。
病院の人だと思っていました。

けれど後になって、掃除に来ていたおばさんだと分かりました。

私は毎日その人を探し回っておやつをねだっていた。
いつも何かを用意していてくれましたよ。
ない時には「これでなんか買っておいで」と
お小遣いをくれたりしました。

いま思えば、そんな神様の使いのような人に
出会えていたんですね。

それから、先人たちが残してくれた言葉にも救われました。

石川啄木の歌に

「はづれまで一度ゆきたしと
  思ひゐし
 かの病院の長廊下かな。」

とありますが、病院の廊下って本当に長いんです。
なぜかと言えば、廊下の突き当たりから先へは、
病人は出ていくことができないから。
だからこの歌が身に染みて分かるんですよ。

他にも

「東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる」。

私のいた病院は海辺の崖の上に建っていて、
砂浜へ下りていける道があった。
私は朝ご飯を食べると、逃げるようにそこへ行くわけです。
一日ボーッと海鳥などを見ながら、
そんな歌やこんな歌を胸に浮かべていました。

※長野氏の人生を救ったという、
 若山牧水の歌やロングフェローの詩とは?
 詳しくは『致知』9月号(P48~51)をご覧ください。

「娘が残した九冊の日記」

日曜日, 8月 4th, 2013
        植木 誠(教研学習社代表)

              『致知』2005年7月号
               致知随想より

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二十二年前、十一歳だった娘の亜紀子は
「ママ、ごめんね……」という言葉と九冊の日記帳を残し、
この世を去りました。

三歳で白血病を発病し、人生の大半を闘病生活に費やした
彼女の最期は、穏やかで安らかなものでした。
しかし私の胸の中に去来したのは、
罪悪感以外の何ものでもありませんでした。

当時私は中学校の国語の教師をしていましたが、
二十二年前といえば日本中の中学が荒れに荒れ、
私の赴任先も例外ではありませんでした。

昼間、学校で生徒指導に奔走し、
ヘトヘトになって帰宅すると、娘が一晩中、
薬の副作用で嘔吐を繰り返す。

あるいは妻から「きょうは亜紀子が苦しそうで大変だった」と
入院先での容態を聞かされる。

「俺はもうクタクタだ。一息つかせてくれ」

と心の中で叫んでいました。
そしてある日、妻にこう言ったのです。

「治療はおまえに任せる。俺は学校で一所懸命仕事をする。
  経済的に負担をかけないようにするから、任せておけ」

もっともらしく聞こえるでしょう。
しかし本心は「逃げ」でした。

彼女を失い、初めて治療に関して
「見ざる・聞かざる」の態度を取り続けたことへの
罪の意識が重く重く圧し掛かってきました。

なぜ、もっと一緒に病気と闘ってやらなかったのだろう。
俺は罪人だ……。

もういまさら遅いけれども、
彼女の八年の闘病生活と向き合いたい。
その思いから、娘が残した九冊の日記帳に手を伸ばしたのでした。

「十二月二日(木)

  今度の入院からはいろいろなことを学んだ気がします。
  今までやったことのない検査もいろいろありました。

  でも、つらかったけど全部そのことを
  乗りこえてやってきたこと、
  やってこれたことに感謝いたします。

  これはほんとうに、神様が私にくれた一生なんだな、と思いました。
  きっと本当にそうだなと思います。
  もし、そうだとしたら、私は幸せだと思います」

「二月十日(木)

  早く左手の血管が治りますようにお祈りいたします。
  そして日記も長続きして、元気に食よくが出ますように。
  また、いつも自分のことしか考えている子にしないで下さい」

点滴点滴の毎日で左手の血管が潰れ、文字は乱れていました。
それでも一所懸命書いたこの一文に
十一年間の彼女の人生が象徴されているようで、
私にはとても印象に残りました。

あれは彼女が亡くなる数日前のことでした。

朝、妻に頼みごとをして仕事へ行きましたが、
その日は検査や治療で忙しかったらしく、
夕方私が病院に着いた時、まだ手つかずのまま残っていました。

「きょうは忙しくてできなかった」

と妻に言われ、一瞬ムッとした顔をしましたが、
娘はそれを見て、

「ママやってあげて。私のことはいいから」

と言ったのです。

命が尽きるその時まで自分のことだけを
考えている子ではありませんでした。

すべて読み終えた時、私は胸を打たれました。

普通に学校にも通いたかったでしょう。

こんなに苦しい闘病生活を送らなければならない
運命を恨みたくもなったでしょう。

しかし日記には同じ病室の子どもたちを思いやる言葉や、
苦しい治療に耐える強さをくださいという祈りの言葉、
明日への希望の言葉、そんな強く美しい言葉ばかりが
記されているのです。

広い世の中から見れば、一人の少女の死に過ぎませんが、
この日記から得る感動は親の贔屓目ではなく、
誰もが同じ気持ちを抱くだろうと思いました。

私は彼女へ対する懺悔の気持ちと相まって、
「娘の日記を世に送り出したい」と思い至りました。

そうして教職を辞して出版社を設立、
娘が残した日記をまとめ出版したのです。

各マスメディアが取り上げてくださったおかげで反響を呼び、
映画化もされました。

たくさんの激励のお手紙をいただき、
それを励みに今日まで毎年一冊ずつ彼女が残した日記を
出版し続けることができました。

もちろん、行き詰まりそうになったことはたくさんあります。

十一年前には映画の製作会社が倒産し、
フィルムが紛失しかけたことがありました。
それをなんとか見つけ出し、
財産をはたいて版権を買い取りました。

映画技師の資格を取り、平成五年からは
自主上映会と同時に講演を行う形で全国を行脚しています。

人は私のことをただの「親ばか」だと思うかもしれません。

しかしこの二十二年間、
私は娘の日記によって生かされてきました。

読者の方や講演先とのご縁をいただき、さらに

「感動した」

「これからもあっ子ちゃんのことを伝えてください」

という励ましの言葉をいただける。
それがいまの私の支えです。

娘の亜紀子は短くとも最期まで前向きに、
他の人を思いやって生き抜きました。

本当はもっと生きたかったはずですが、それは叶わなかった。

そんな女の子がいたことを、
出版や講演を通して世に伝えることで、
あたかも人間の命が弄ばれているかのような
現代社会に対し、命の尊さを訴えたいと思っています。

先日、私の講演もついに百回目を迎えましたが、
その会場は偶然にも娘が亡くなるまで通った小学校でした。
遥か後輩にあたる子どもたちが、
「一日一日を大切に生きたい」という感想をくれました。

私の活動は世の一隅を照らすことしかできませんが、
どんなことがあっても続けていかなければならない
という気持ちを新たにしました。

「怒涛の人生 ~かく乗り越えん~」

日曜日, 8月 4th, 2013
      

       尾車 浩一(日本相撲協会巡業部部長・理事)

          『致知』2013年9月号
           特集「心の持ち方」より
   http://www.chichi.co.jp/monthly/201309_pickup.html#pick2

尾車浩一HP[1]


【記者:十年前にもご登場いただきましたが、
    大変お元気な印象が強かっただけに、
    昨年、脊髄損傷で四肢麻痺になられたという
    報道を聞いて大変驚きました】

私、昨年の二月に相撲協会内の巡業部長に就任したんです。
平成六年から巡業部に籍を置き、
自分なりに改革する点がいっぱいあるなと思ってきました。

三月の本場所を終え、部長として初めて四月に巡業を迎えました。

スタートの四月一日は伊勢でした。
神宮に集まった全力士の前で巡業の責任者として
私なりの決意を述べました。

相撲界は不祥事やらいろいろあったと。

だからお客さんは本当に相撲界が変わったのか、
変わっていないのか、ちゃんと見ている。
俺も精いっぱい頑張るから、みんな一緒についてきてくれ。
とにかく真剣な取り組みを見せようと。

奈良を経て、四月三日と四日は
福井県小浜で二日間の興行でした。
市内の体育会に養生用のブルーシートを張って、
そこに土俵を設置して開催したのです。

そして二日目の出来事でした。
きょうも巡業がうまくいってほしい。
そんな思いで会場内を歩いて視察していたんです。

ふと、土俵のほうが気になったんですね。
ひょいっと、土俵のほうを見ながら
前方を確認せずに歩いていたのが災いしました。

足がブルーシートのつなぎ目に引っかかって、
バターンと。

どんなふうに倒れたのか自分では覚えていないけれども、
転倒して、気づいたら床に仰向けになっていました。

ああ、転んでしまった。
立ち上がろう、と思っても、体に力が入らないんですよ。
あれ? 動かないと。

周囲の人たちに上体を起こしてもらいながら、
手足に「動け、動け」と指令を出したけれども、
残念ながらピクリともしなかった。
「あぁ、これはえらいことになったな」と思いました。

【記者:その時、既に起こった事の重大さに気づいていらしたのですね】

これは後から分かることですが、この時、
私は首を強打して脊髄を損傷してしまったんです。

四肢麻痺状態で動かない体を救急車に乗せられて、
小浜市内の病院へ。

そうして検査、検査が続いて、
MRIの狭い箱の中に入れられた時、涙が出てきました。
どういう涙と言ったらいいのかな……。

情けないのか、悲しいのか、よく分からないけれど、
天井を見ながら涙がポロポロと出てきたことは覚えています。

翌朝、ヘリの手配がつかず、
民間の救急車でストレッチャーに寝たまま
東京の慶應病院へと向かいました。

駆けつけた女房と、小浜の病院の先生が
同乗してくれていましたが、
聞けば到着まで八時間もかかったといいます。

その間、私は「なんで自分がこんなことに」
という情けない思いと、ただただ女房に
「すまない」という、それだけでしたね。

※尾車氏はいかにこの苦境を乗り越え、
 奇跡といわれる回復を果たしたのか?

 詳しくは、まもなくお手元に届く
『致知』9月号(P26~30)をご覧ください。
http://www.chichi.co.jp/monthly/201309_pickup.html#pick2