まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「もう駄目だ そこから本当の人生が始まる」

水曜日, 7月 17th, 2013
    梶山 祐司(元競輪選手)
        『致知』2004年7月号
               致知随想より

└─────────────────────────────────┘
二年前、私は通算三十四年に及ぶ
競輪選手生活にピリオドを打ちました。

もともと運動神経がよいほうではなく、
走るのも速くはなかった私にとり、
競輪人生は試練の連続でした。

努力が結果に結びつかない現実にも幾度となく直面しました。

しかし、日々の練習や勝負の中で、
私は人生の宝物ともいえる
掛け替えのない学びを得ることができたのです。

家が貧しかったため、兄は中学を出て
すぐ働きに出ていました。

私も将来を考える時期に差し掛かった頃、
たまたま兄に連れていかれた競輪場で、
人間が自らの力で生み出すスピードの凄さに
たちまち魅了されました。

こんな素晴らしい世界で日本一になってみたい――
強い思いに突き動かされ、
私は競輪選手を目指すことにしたのです。

プロになるためには、まず競輪学校へ
入学しなければなりませんが、
定員の十倍もの志望者が殺到します。

資質に劣る私は、とにかく人の何倍も練習しようと決意し、
多い日は夜中の一時半からその日の二十一時まで二十時間近く、
限界を超える鍛錬を積んで合格を果たし、
入学後も人一倍練習を重ねてプロになったのです。

当時、競輪選手は四千人以上いました。

レースは実力別に七つのクラスに分けて行われ、
これも当時の頂点であったA級一班の百二十人に
入ることを目指してしのぎを削るのです。

もちろん私の目標もA級一班でしたが、
とても口には出せませんでした。

周りはインターハイの優勝者など、
桁外れの脚力の持ち主ばかり。

一方私は、競輪学校のコンピュータによる体力分析で、
プロでは勝てないと指摘されていたのです。

しかし私の視野には、苦労して
プロの切符を手にした競輪の世界しかありませんでした。

三年やって駄目なら死ねばいい。
その代わり命懸けで三年やろうと決意しました。

早朝に静岡市内の自宅から御前崎まで往復八十キロ、
朝八時に再びサドルにまたがり河口湖まで往復二百キロ、
戻ってくると競輪場で十九時までスピード練習を行い、
さらに二十時から大井川方面まで走って二十二時に帰宅。

少ない日でも一日二百キロ、月六千キロ、年間七万二千キロ、
死にもの狂いでペダルを漕ぎ続けました。
私以上に練習した人はおそらくいなかったと思います。

最初はなかなか勝てませんでしたが、
三年経つ頃には努力が確実に成績に結びつくようになり、
八年で念願のA級一班入りを果たすことができたのです。

コンピュータで筋力は分析できても、
人間の気力までは分析できません。
気力さえあればデータなど吹き飛ばして
やり遂げることができるのです。

しかし、そこからの道のりも決して平坦ではありませんでした。
度重なる練習やレース中の事故で
延べ五十本にも及ぶ骨折に見舞われましたが、
そこから再起しました。

一番大きな怪我は頸椎の骨折でした。

「もう駄目だ」、何回も何回も思いました。
やめるべきか、再起すべきか。
もし再度落車すれば半身不随の可能性もある。
悩みに悩みましたが、再起の道を選びました。

心の支えになったのが須永博士さんの詩でした。

「“もうだめだ”

 そこから人生が

 はじまるのです

 そこから

 本当の自分を

 だしきって

 ゆくのです

 そこから

 人間這いあがって

 ゆくのです

 “もう駄目だ”

 そこからもっともっと

 すごい強い自分をつくって

 ゆくのです」


苦しい時、本当の自分が姿を現します。
そこで駄目になるのも自分、
もっと凄い自分をつくっていくのも自分。
そこから本当の人生が始まるのです。

「無限の力」

月曜日, 7月 15th, 2013
 尾崎 まり子(主婦、喫茶店勤務)
            『致知』2004年7月号
               致知随想より

└─────────────────────────────────┘

  突然、それは本当に突然でした。
  四年前になります。

  お正月を過ぎてほどない日の午後、
  息子の功が意識を失って倒れたのです。

  不整脈から心肺停止状態に陥ったのでした。
  小学生から野球に熱中し、中学生になると
  浦安リトルシニアに入り、やがては甲子園出場、
  巨人入団を夢見ていました。

  そんな作文を小学六年の時に書いています。

  中学三年で身長百七十六センチ、体重六十三キロ、
  鍛えた筋肉質の身体は頑健で、
  学校は無遅刻無欠席、病気らしい病気を知らずにきた子でした。
  それだけに突然の異変は驚きでした。

  それから四か月、何度も訪れた危篤状態を
  驚くような生命力で乗り越え、
  平成十二年五月二十日、功は天国に旅立ちました。
  十五歳八か月の人生でした。

  振り返ると、一日二十四時間では
  とても足りないような毎日を過ごした子でした。

  中学生になると、土日は野球の練習や試合でいっぱい。

  学校では生徒会役員を一年生からやり、
  三年では学級委員長も務めました。

  それだけでも手いっぱいなのに、
  部活動ではバスケット部に入りました。

  苦手の英語も、英会話で進める授業の面白さに引かれ、
  その勉強もしなければなりません。

  野球の仲間、クラスメートとの遊びもあります。

  あれもやりたい。
  これもやりたい。
  でも、功はこだわりの強い性格なのでしょうか。

  中途半端が大嫌いで、どれ一つとして疎かにはできません。
  徹底してやるから、時間がいくらあっても足りないはずです。

「ああ、時間が欲しいよォ」

 いまでも功の声が聞こえるような気がします。
  あんなふうに生きたのも、自分に与えられた
  時間の短さを予感していたからなのかもしれません。

  といって、功は特に才能に恵まれた子ではありませんでした。
  いささか恵まれているといえば背の高さぐらい。

  まず運動神経も人並み、頭脳のほうも
  人並みというのが率直なところです。

  だから、何かを達成しようと思えば、
  努力しなければなりません。

  野球でレギュラーになるのも努力、
  生徒会役員の務めを果たすのも努力という具合です。
  そして、目標を立て努力すれば夢は叶うという確信を、
  小さい営みの中で功なりにつかんだのでしょう。

  いつごろからか、功はそのことを
  「無限の力」という言葉で表現するようになりました。

 「誰にでも無限の力があるんだよ。

  無限の力を信じれば目標は必ず叶うんだ」


  お母さん、これだけはちゃんと聞いてくれよという感じで、
  夕餉(ゆうげ)の食卓で功が言ったことを、
  昨日のように思い出します。

 「無限の力」で忘れられないのは、
  やはり中学三年の時の校内合唱祭でしょうか。

  音楽が得意というわけでもなく、楽譜も読めない功が、
  自分から立候補して指揮をすることになったと
  聞いた時は驚きました。

  それからは楽譜と首っ引きで指揮の練習です。

  腕を振りすぎて痛くなったり、
  クラスのまとまりの悪さに悩んだり、
  いろいろとあったようですが、
  功は「無限の力」を学級目標にかかげ、
  みんなを引っ張っていったのでした。

  そして、クラスは最優秀賞、自身は
  指揮者賞を受けたのです。名を呼ばれ、
  周りにピースサインを送り、
  はにかんだ笑顔で立ち上がった功。

 「無限の力」は本当だと思ったことでした。

  その二か月後に功は倒れ、帰らぬ人になりました。

  しかし、私が「無限の力」を実感するようになったのは、
  それからかもしれません。

  一緒に野球をしてきた親友は功の写真に、
  「おれがおまえを甲子園に連れてってやる」と誓い、
  甲子園出場を果たしました。

  「功が言っていた無限の力を信じて、看護師を目指すよ」

  と報告してくれた女の子もいました。

  出会い、触れ合った人たちに何かを残していった功。
  それこそが「無限の力」なのでしょう。

  私も、と思わずにはいられません。

  自分の中にある「無限の力」を信じて、
  自分の場所で、自分にできることを精いっぱい果たしていく。

  そういう生き方ができた時、
  功は私の中で生き続けることになるのだと思います。

  先日、用事があって久しぶりに
  功が通っていた中学校を訪れました。

  玄関を入って私は立ちすくみ、動けなくなりました。

  正面の壁に功の作文が張り出されていたのです。

  それは功が倒れる数日前に書いたものでした。

  あれから月日が経ち、先生方も異動され、
  功をご存知の方は三人ほどのはずです。

  それでも功の作文が張られているのは、
  何かを伝えるものがあると思われたからでしょう。

  これを読んで一人でも二人でも何かを感じてくれたら、
  功はここでも生きているのだと思ったことでした。

  最後に、拙いものですが、功の「友情」と
  題された作文を写させていただきます。

 《私にとって「友情」とは、
  信頼でき助け合っていくのが友情だと思う。

  そして、心が通い合うことが最も大切なことだと思う。

  時には意見が食い違い、言い合う事も友情のひとつだと思う。

  なぜなら、その人のことを本気で思っているからだ。

  相手のことを思いやれば、相手も自分のことを
  必要と感じてくれるはずだ。

  私には友が一番だ。

  だから、友人を大切にする。

  人は一人では生きられない。

  陰で支えてくれている人を忘れてはいけない。

  お互いに必要だと感じることが、友情だと思う。

   尾崎 功》

「健康の三原則」

水曜日, 7月 10th, 2013
   『致知』2013年7月号
           特集「その生を楽しみ その寿を保つ」総リードより

└─────────────────────────────────┘

その生を楽しみその寿を保つ――
本誌にゆかりの深い新井正明氏はこの言葉を好まれ、
よく口にされた。

その生を楽しむとは自分の生業を楽しむということ。
仕事を楽しむことができれば、
自ずとその寿を保って長生きができる。

新井氏は言葉の意味をそう説明されていた。
事実、氏はこの言葉どおりの人生を生きられた。

二十六歳の時、ノモンハン事件で負傷、
右脚切断、隻脚の身となられた。

「人より遅く来て早く帰ってよろしい」
という上司の言葉を有り難く受け止めながらも、
人より早く出社し、人よりも遅くまで働き、
社長、会長としてすぐれたリーダーシップを発揮、
社を業界上位に躍進させ、数え九十二歳までその寿を保たれた。

その新井氏が生涯の心訓とされたのが安岡正篤師の
「健康の三原則」である。

曰く、

   一、心中常に喜神を含む――

     どんなことにあっても心の奥深いところに
     いつも喜ぶ心を持つ

   二、心中絶えず感謝の念を含む


   三、常に陰徳を志す


「その生を楽しみその寿を保つ」ために
忘れてはならない三原則といえよう。

この六文字について、新井氏には思い出がある。

氏が静岡支社長の時期、安岡師に二人の弟子がいた。

一人は農業をしている人。
日本は敗戦で混乱状態になったが、
こういう時だからこそ安岡師の教えを広めなければと、
自分も学び、人にも熱心に説いて回った。

もう一人は金物屋さん。

「人生のチアリーダー」

日曜日, 7月 7th, 2013
 佐野 有美(さの・あみ=車椅子のアーティスト)

           『致知』2012年4月号「致知随想」

11月5日佐野[1]

………………………………………………………………………………………………

「私、チアに入りたいんだけど、一緒に見学に行こうよ」

 友人からのこの誘いがすべての始まりでした。 
 高校に入学し、部活に入る気もなかった私は、
  友人に付き添いチアリーディング部の練習を見に行きました。

 目に飛び込んできたのは、先輩たちの真剣な眼差し、 
 全身で楽しんでいる姿、そして輝いている笑顔でした。

  それを見た時、

「すごい!! 私も入りたい!!」

  という衝動に駆られたのです。
  しかし、次の瞬間、

「でも私には無理……」

 という気持ちが心を塞いでしまいました。

 私には生まれつき手足がほとんどありません。 
 短い左足の先に三本の指がついているだけ。
  病名は「先天性四肢欠損症」。

  指が五本揃っていなかったり、
  手足がないなどの障害を抱えて生まれてくるというものです。

 幼少期から母親の特訓を受け、一人で食事をしたり、 
 携帯でメールを打ったり、字を書くことや
 ピアノを弾くこともできますが、
  手足のない私には到底踊ることはできません。

  半ば諦めかけていましたが、
 「聞いてみないと分かんないよ」という
 友人の声に背中を押され、顧問の先生に恐る恐る
 「私でも入れますか?」と聞いてみたのです。

 すると先生は開口一番、 

「あなたのいいところは何?」

  と言われました。

  思わぬ質問に戸惑いながらも、私が

「笑顔と元気です」

  と答えると、

「じゃあ大丈夫。明日からおいで」

  と快く受け入れてくださったのです。

 手足のない私がチアリーディング部に入ろうと決意したのは、 
 「笑顔を取り戻したい。笑顔でまた輝きたい」
  という一心からでした。

  生まれつき積極的で活発だった私は、
  いつもクラスのリーダー的存在。
  そんな私に転機が訪れたのは、小学校六年生の時でした。

  積極的で活発だった半面、気が強く自分勝手な性格でもあり、
  次第に友達が離れていってしまったのです。

 そんな時、お風呂場で鏡に映った自分の身体を 
 ふと目にしました。

「えっ、これが私……。気持ち悪い……」

  初めて現実を突きつけられた瞬間でした。

  孤独感で気持ちが沈んでいたことも重なり、

「よくこんな身体で仲良くしてくれたな。
  友達が離れてしまったのは身体のせいなのでは……」

 と、障碍について深く考えるようになり、 
 次第に笑顔が消えていきました。

 そのまま中学三年間が過ぎ、 
 いよいよ高校入学という時になって、

「持って生まれた明るさをこのまま失っていいのだろうか。
  これは神様から授かったものではないか」

  と思うようになり、そんな時に出会ったのが
 チアリーディングだったのです。

 初めのうちはみんなの踊りを見ているだけで楽しくて、 
 元気をもらっていました。

  しかし、どんどん技を身につけて成長していく
 仲間たちとは対照的に、何も変わっていない自分が
 いることに気づかされました。

「踊りを見てアドバイスを送って」と言われても、 
「踊れない自分が口を出すのは失礼ではないか」

 という思いが膨らみ始め、仲間への遠慮から 
 次第に思っていることを言えなくなってしまったのです。
  せっかく見つけた自分の居場所も明るい心も失いかけていました。

「チアを辞めたい。学校も辞めたい……」。

  そんな気持ちが芽生え、次第に学校も休みがちになりました。
  しかし、私が休んでいる間も、
 「明日は来れる?」と、チアの仲間やクラスメイトは
 メールをくれていました。

「自分が塞ぎ込んでいるだけ。素直になろう」

  そう分かっていながらも、一歩の勇気がなく、
  殻を破れずにいる自分がいました。

 その後、三年生となった私たちは、 
 ある時ミーティングを行いました。
  最終舞台を前に、お互いの正直な気持ちを
 話し合おうということになったのです。

 いざ始まると、足腰を痛めていることや学費の問題など……、 
 いままでまったく知らなかった衝撃的な悩みを
 一人ずつ打ち明けていきました。

「みんないっぱい悩んでいるんだ。辛いのは私だけじゃない……」

 そして、いよいよ私の番。震える声で私は話し始めました。 

 「自分は踊れないから…… 

  みんなにうまくアドバイスができなくて…… 

  悪いなって思っちゃって…… 

  みんなに悪いなって…… 

  だから、だから、これ以上みんなに迷惑かけたくなくて……」 

 続く言葉が見つからないまま、涙だけが流れていきました。 
 そうすると一人、二人と口を開いて、

 「私たち助けられてるんだよ」

 「有美も仲間なんだから、うちらに頼ってよ」

  と、声をかけてくれたのです。
  そして最後、先生の言葉が衝撃的でした。

 「もう有美には手足は生えてこない。

  でも、有美には口がある。

   だったら、自分の気持ちはハッキリ伝えなさい。

   有美には有美にしかできない役目がある!!」

 これが、私の答えであり、生きる術でした。 

 チアの仲間や顧問の先生に出会い、
 私は自分の使命に気づかされました。

 声を通して、私にしか伝えられないメッセージを 
 届けたいとの思いから、高校卒業の2年後、
  2011年6月にCDデビューを果たし、
  アーティストとして新たなスタートを切りました。
  十二月には日本レコード大賞企画賞をいただくことができたのです。

 チアリーダーという言葉には、
 「人を勇気づける」という意味があります。
  私は誰かが困っていたり、悩んでいたりする時に、
  手を差し伸べることはできません。

  しかし、声を届けることはできる。
  チアリーディング部を引退したいまも、
  私は人生のチアリーダーとして、
  多くの人に勇気や生きる希望を与えていきたいと思っています。

「エベレスト登頂秘話 ~命がけのお茶会~」

土曜日, 7月 6th, 2013
三浦 雄一郎(冒険家)

              『致知』2013年8月号
               特集「その生を楽しみ、その寿を保つ」より
          http://www.chichi.co.jp/monthly/201308_pickup.html

└─────────────────────────────────┘

【大竹】 実は私も18歳の時、
     八ヶ岳を1か月ほど縦走したんですが、
     酸素濃度が平地よりも随分と薄く、
     呼吸が苦しくなりましてね。

【三浦】 2000~3000メートルの山になれば、
     そうなります。

【大竹】 体感温度はマイナス30度から40度。
     あの程度の高さの山でも、不安感や恐怖感を
     いまだに記憶してるんですよ。

     ましてエベレストなんていうのは、
     まるで想像ができません。

【三浦】 いや、でも基本的には好きでやっていることですから。
     で、どうせやるなら面白くやろう、
     というのが我われの方針で。

     実は今回も8500メートルの頂上直下で、
     お茶会をやったんですよ。

【大竹】 え、お茶会?

【三浦】 福寿園の抹茶、茶筅(ちゃせん)から
     お碗から茶を点てる道具、
     虎屋の羊羹(ようかん)まで全部揃えて、
     これから頂上へ行こうという時に
     テントの中でお茶を点てたんです。

     息子の豪太に言わせると、
     なんでそんな物を持っていくんだと。
     8000メートルへ行くには100グラムでも
     軽くしたいわけですからね。

【大竹】 それは心を静める意味合いがあったのでしょうか。

【三浦】 そうです。実際、作法も何も知らないくせに
     お茶を点てていただくと、不思議に心が落ち着く。
     そして頂上に早く立ちたいとエキサイトしていた皆の心が、
     すうっと静まっていった。

     これから命懸けで臨もうとする
     出陣前の儀式のようなものですね。
     その結果、四人の心が一つになって。

【大竹】 戦国武将も戦場でお茶を点てたといいますからね。

【三浦】 はい、それと同じような心境でしょうね。
     一見無駄かと思われていたものが、
     こんなにも人の心を掴んだんですよ。


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【大竹】 そういう試みが余裕を生んで
     チーム力を高めたのでしょうね。

【三浦】 また、食事も普通はアルファ米をかき込むだけですが、
     雲丹やら塩辛やら北海道の特産物、
     それに手巻き寿司なんかも用意して、
     頂上付近で食べたらこれがおいしくておいしくて(笑)。

     今回一緒に登った二人はエベレストを
     もう何回も登っているプロの登山家です。
     その彼らもこんなに食事がおいしく、
     優雅で楽しい登山は初めてだったと言いました。

【大竹】 それは驚きました。
     技術的な凄さもさることながら、
     精神面についてのケアもいろいろと
     工夫をされていたのですね。

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「江戸時代のメンタルヘルス」

金曜日, 7月 5th, 2013
     立川 昭二(北里大学名誉教授)

              『致知』2013年8月号
               特集「その生を楽しみ、その寿を保つ」より

└─────────────────────────────────┘

貝原益軒の後輩の水野沢斎は養生には三つあると話しています。

一つが身養生」、

二つ目が心養生」、

そして三つ目が家養生です。

この三つは巡り巡っていると考えていて、
身体がよければ心もよい。

心がよければ家も整ってくる。

逆に身体が悪ければ心も悪くなり、
心が悪くなれば家が悪くなると、
非常に地に足のついた、
あるいは生活者の視点に立った考え方をしています。

なかなか上手いことをいうものです。

人の生き方、あり方を詳しく述べているところに
私は『養生訓』の魅力を感じると申し上げましたが、
健康論そのものも現代人が考える健康法とは大きく異なっている。
ここもまた注目に値します。

例えば私たちが健康に関して語る場合、
何を話題にするかというと二つあるんです。

一つは病名の話。

糖尿病だとか高血圧だとか。
それからもう一つが臓器の話です。
肝臓がどうだとか、心臓がどうだとか。

ところが、驚くことにこの『養生訓』には、
一か所中風、いまの脳卒中のことに触れられているだけで、
他に病名の話もなければ臓器の話もない。

では、人間の体はなんでできているのか。
これが帯津先生が詳しく説かれる「気」なんですね。

例えば「気を減らすこと」「気を滞らせること」が
健康を損なうという言い方をしています。
その意味で益軒の学問は「気の医学」といってよいかもしれません。

益軒の健康論のもう一つの特徴は、
健康の最も大切な眼目として心の健康、
メンタルヘルスを挙げている点にあります。

健康とは心身の相関であるという
ホリスティックな考え方がここに出てきます。

心身のバランスがしっかりしていたら病気にならないし
人生を楽しく生きていくことができる。
これは現代に生かせる益軒の教えではないでしょうか。

例えばこういうことを言っています。

「常に元気をへらす事をおしみて、言語をすくなくし、
 七情(喜怒哀楽愛悪慾)をよきほどにし、
 七情の内にて取わき、いかり、かなしみ、うれひ、思ひを
 すくなくすべし。

 慾をおさえ、心を平にし、気を和にしてあらくせず、
 しづかにしてさはがしからず、心はつねに和楽なるべし。
 憂ひ苦むべからず。是皆、内慾をこらえて元気を養ふ道也」


怒り、悲しみ、愁い、嘆き。そういうことを
なるだけ避けて毎日を楽しく暮らしなさい、
心は常に和楽でなくてはなりません、
という考えは私などは大いに共感するのですが、
そういったことを繰り返し繰り返し説いている。

現代と同様、江戸時代の人たちにとっても
メンタルヘルスは非常に大切だったのでしょうね。

「驚異の101歳、現役サラリーマンの日常」

木曜日, 7月 4th, 2013
    福井 福太郎(東京宝商会顧問)

              『致知』2013年8月号
               特集「その生を楽しみ、その寿を保つ」より

face[1]└─────────────────────────────────┘

【記者:お勤め先はどちらですか?】

福井 会社は神田にあって、
最寄り駅の辻堂(神奈川県)から片道一時間、
電車を乗り継いで向かいます。

朝八時三十六分発の快速湘南ライナーに乗って、
東京駅の階段を四十一段下り、
人混みを縫って今度は階段を上がり、山手線に乗り込む。

車内はぎゅうぎゅう詰めですが、
仮に優先席が空いていても、一駅分ですから席には座りません。

【記者:毎日往復二時間の通勤というのは大変でしょう】

皆さんからも健康法をよく聞かれるんですが、
毎日そうやって歩いているから元気でいられるんでしょうね。

僕の携帯電話には歩数計がついていて、
一日に七千歩から八千歩は歩く。

いまはもうだいぶ足腰も弱りましたが、
それでも普通には歩けますから、贅沢は言えません。

【記者:背筋もピンとしておられます】

あ、これは謡(うたい)を歌っているせいです。
謡は前屈みの格好じゃ力が入らなくて歌えませんから。

喉から出る声はダメなんですよ。
お腹から声を出すにはグッと胸を張る必要がある。
四十二歳の時から始めたんですが、
かれこれ六十年近くも続けていることになりますね。

【記者:いまでもいいお声が出ますか?】

えぇ、まぁ(笑)。
声は軍隊へ行った時に号令を掛けたりしていましたから。

軍隊じゃ大きな声を出さないと、こっぴどく叱られる。
だから若い時に身につけたことが、
年をとっても影響してくるんじゃないでしょうか。

周りの方を見ていても、年をとってから
新しく何か習慣をつくるというのは難しいですね。
たいていは若い時から
ずっと続けてやっているものが残っている。

【記者:食事はどうされていますか】

朝四時半には起床し、食パンを焼いてハムとレタス、
トマトを載せてよく噛んで食べます。

妻には四年前に先立たれてしまいましたが、
夕食は同じ敷地内に住む長男夫婦の家で、
嫁が作ってくれた食事を一緒に食べています。
若い頃と変わらないくらいよく食べていますよ。

【記者:好き嫌いもなく?】

えぇ、肉でもなんでも食べます。
それと野菜はうんと食べなきゃいけないですね。

何しろね、偏るとダメです。
これは食べ物だけじゃありません。
考え方も狭い見識でなく、広く物事を見ていかないと。

まぁ、いま言ってきたことの一つひとつが
長生きをした基礎になっているのでしょうね。

「セルフ・サポートのすすめ」

水曜日, 7月 3rd, 2013
   清川 妙(作家・エッセイスト)

              『致知』2013年8月号
               特集「その生を楽しみ、その寿を保つ」より

└─────────────────────────────────┘

私は毎日機嫌よく生きたいなと思います。
ぐちぐち不平を口にしながら生きてもつまらないですもの。
同じ生きるなら機嫌よくありたい。

もちろん機嫌悪くなる時もありますけど、
そこできゅきゅっとねじを巻いて、
機嫌のいい自分に直すんです。

やっぱり年を取ってからの生活は意志が要ると思う。
「愚痴を言わないぞ」とか、
そういうセルフ・マネジメントが大切だと思います。

余談ですが、英語の辞書を引くと
「セルフ」が付く単語が百以上あるんですね。

やはり海外では「自分で何々する」ということが
重んじられている証拠だと思うのですが、
「セルフ・コントロール」「セルフ・マネージ」といった中に、
「セルフ・サポート」という単語があって、
とても気に入ったんです。

それは自立や自助といった意味の他に
自営という意味もあって、
いま私もささやかに原稿を書いて
お金をいただいている自営業ですから、
「『セルフ・サポート』っていいな」と思って。

足が重だるいと思ったら、足を高くして寝るとか、
なるべく歩くようにするとか、
自分でできる限りのサポートをして、
「できる状態」を保つの。

体や頭はもちろん、心にもセルフ・サポートは
要ると思うんですよ。

例えば体と頭は体操をするとか
パズルをするとか言われていますが、
心のサポートについては言われないでしょう。

でもやはりこれも人を褒めるとか
「ありがとう」と感謝するとか、
そういう気持ちを強く持って
自分で自分をサポートすることがとても大事だと思う。

いいや、面倒くさい。
年を取ったから仕方がないや、と思ったら、
坂道を転がるばかりです。

「クリエイターに必要な三要素」

火曜日, 7月 2nd, 2013
 早乙女 哲哉(天ぷら「みかわ是山居」主人)

              『致知』2013年7月号
               特集「歩歩是道場」より

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(修業に入った老舗天ぷら屋で)始終考えていたのは
「天ぷらとは一体何か」ということ。

自分のしていることを具体的に言葉で説明できなければ、
きょうは調子がよかった、悪かったという話で終わってしまい、
コンスタントな仕事ができない。

そこで先述したように、自分の行動に
「いまがベストか」と必ず問答を掛けるようにし、
少なくとも天ぷらに関しては、
どんな質問を投げかけられても
全部答えられるようになろうと誓いました。

例えば天ぷらを「揚げる」とはどういう状態を言うのか。
私の出した結論は「蒸す」と「焼く」とを
同時進行で行う、ということです。

油自体は火がつく寸前の三百六十度近くまで
あげることができますが、
天ぷらの衣や魚には水分があるため、
揚げている素材は百度を超えることがありません。

揚げるというよりは、百度で「蒸して」いる状態です。

しかしそのまま油に入れておくと、
徐々に水分が抜けていき、
完全に水が抜け切ったところは、
百度から一気に二百度近い温度へと飛ぶ。

すると百度で「蒸す」のと、
二百度で「焼く」調理とが同時進行で始まるのです。

その原理を認識していれば、魚のクセを取ったり、
衣をいかにつければよいかといったことが
自分自身で把握できるようになります。

理論はよく分からないが、
油の中に入れていれば勝手に揚がるなどと思っていると、
自分から何かを仕掛けていくことなど不可能で、
経験が蓄積されていきません。

詰まるところ、魚も、野菜も、
元は皆生きるために海の中にいたり、
野にあったりしたもの。

それを、料理人は食べるために
置き換える作業をしなければならない。

いま、どこの料理の世界でも、
奇をてらったようなものが大流行りですが、
果たしてそれは本当においしいと言えるのか。
お客さんに面白い料理だと喜ばれればそれでいいのか。

真のクリエイターとは、
科学者であり、数学者でもあり、
なおかつ優れた感性がなければいけない
というのが私の考えです。

従ってお客さんから「おいしいですね」と言われたら、
「えぇ、そうやって揚げてます」と答えられる。
天ぷらがおいしく揚がるよう、
結果が必ずそうなるよう、
一挙手一投足、計算し尽くした中でものづくりをしている、と。

それは即ち次に来ても、
そうやって揚げられますよということであり、
この次も気を抜かずやらなければいけない、
という自分自身への戒めでもあります。

「日本一のお茶汲みになろう」

火曜日, 7月 2nd, 2013
  塩月 弥生子(95歳・茶道家)

              『致知』2013年7月号
               連載第89回「生涯現役」より

└─────────────────────────────────┘

【記者:茶道家として身を立てていかれたのはいつ頃ですか?】

三十歳を過ぎた頃ですね。

私は十六歳の時に巡り合った初恋の人と
結婚するつもりでいたのですが、
三年後に彼が胸の病気で突然亡くなってしまったんです。

もう本当にショックで、ショックで……、
いつになっても立ち直ることができず、
無気力に日々を過ごしていました。

そんな時、東京の荏原製作所の社主の長男だった
畠山不器との見合い話が持ち上がり、
私も辛い過去を忘れてしまいたい気持ちもあって、
とりあえずお目にかかろうと。

そして二十歳の時、彼の元へ嫁いだのですが、
お互いに坊ちゃん嬢ちゃん育ちできた
夫婦の生活はうまくいかず、
結婚から十年後に私は四人の子供たちを置いて、
一人家を飛び出してしまったんです。

夫といがみ合ってばかりいては、
子供にとってもよくないだろう。

まず私が独り立ちをして、その後に子供のことを考えよう、
自分の気持ちを偽らず、真っ直ぐに生きようと思ったんですね。

【記者:すぐ仕事は見つかりましたか?】

私は自分の名前を隠し、
都内にあるバラックの三畳一間に間借りをしました。

そして履歴書を書いて職業安定所に通い詰め、
やっと拾っていただいた会社で、
お茶汲みや掃除、電話の取り次ぎといった仕事を始めました。

自分には何もできないということが前提ですが、
働かせていただくからには
お茶汲み一つにしても一所懸命やろうと。

番茶は舌を焼くほどに熱く、煎茶は質に従って
上等なら温めにと淹れ方を分ける。
また、この方は二日酔いのようだからと昆布茶にしてみたり、
時には梅干しを落としてみたり。

お掃除も、ロビーにあった植木鉢の葉についた
汚れを一枚一枚きれいにしていく。

いずれのことも、茶道を通じて身につけたお作法や
接客の心得でしたが、私自身が、お茶汲みをするなら
「日本一のお茶汲みをしよう」と
一人決意していたこともありました。

それで会社の人も、これだけお茶汲みやお掃除を
一所懸命やってくれる人なら、
他の仕事を任せてもちゃんとやってくれるだろうということで、
私を接客対応担当にしてくださいました。

やがて私が裏千家の娘であることが知られだし、
会社の中でも
「昼休みに社内の女の子たちにもお茶を教えてやってほしい」
という声が挙がるようになったんです。