まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

どうしてだろうと・・・・・

火曜日, 6月 4th, 2013

神戸の鳥本逸子さまから、

こんなpoemを送ってくださいました。

 

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どうしてだろうと

         まど・みちお

 

どうしてだろうと

おもうことがある

 

なんまんなんおくねん

こんなすきとおる

ひのひかりのなかに

いきてきて

こんなにすきとおる

くうきをすいつづけてきて

こんなにすきとおる

みずをのみつづけてきて

 

わたしたちは

そしてわたしたちの

することは

どうして

すきとおっては

こないのだろうと・・・・・・

 

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「天ぷら職人、名人の流儀」

火曜日, 6月 4th, 2013
早乙女 哲哉(天ぷら「みかわ是山居」主人)

              『致知』2013年7月号
               特集「歩歩是道場」より

└─────────────────────────────────┘

好きなアーティストに店をつくってもらい、
自分もアーティストとして料理をつくろう――。
そう決意したのは十七歳の時でした。

以来、天ぷら職人としてさらに修業を積み、
二十九歳で日本橋に「みかわ」を開店。

四年前、自分の理想としてきた店「みかわ是山居(ぜざんきょ)」を
福住町(東京都)につくるまで、実に四十七年を費やしました。

当店には内装に始まり、上階には陶器や絵画などが展示されるなど、
食前の気分を高揚させたり、食後の余韻を楽しんだりできるよう
趣向が凝らしてあります。

これらは「料理屋とは文化度の勝負である」という
持論から来るもので、いままでにコレクションしてきた
美術品の数は四万点近くにもなりました。

私が思うに文化とは遊びを極めたところから
生まれてくるものではないでしょうか。

お金の使い方にせよ遊びの仕方にせよ、
そこには一つの美学がなければいけない。

その美学が江戸前の仕事をさせるのだと思う。

何も江戸前の看板を下げたからといって
江戸前の天ぷらができるわけではなく、
自分自身の生き様そのものが
江戸前でなければならないということです。

ただ、形は整ったものの、
料理としてのスタイルはまだまだ道半ばで、
日々延々と穴埋め作業をしていくようなものです。

例えば、こことここだけは絶対に譲れないという
こだわりを料理の中で示し、十五も二十もある
自分の思いを込めて天ぷらを揚げる。

すると今度はその間にある「穴」が見えてしまう。

つまり二十の穴を埋めると四十の穴が、
四十の穴を埋めると八十の穴が、
八十の穴を埋めると百六十の穴が開く。

その穴は埋めた者にしか見えませんが、
私はそれを埋め続けるため、
百三十歳まで現役を貫く覚悟をしています。

そこに目標を置かなければ、
「もういいか」と逃げ道をつくってしまうことになるからです。

「プロ宣言をした真意」

水曜日, 5月 29th, 2013
  竹内 洋岳(プロ登山家)

              『致知』2013年6月号
               特集「一灯照隅」より

└─────────────────────────────────┘

これを踏まえて二〇〇六年、私はプロ宣言をしました。
記者会見を開き、八千メートル峰十四座を
すべて登り切ることを宣言したのです。

発表前に思ったことは、その発表をする自分は
いったい何者かということでした。

それまでの私は、一人の登山愛好家として
ただ自分の登りたい山に登り続けてきました。
しかしそういう宣言をする以上は、
単なる愛好家では済まなくなりました。

十四座完登というのは、それまで数多くの
先輩登山家たちが命懸けで挑戦してきた目標でした。

実際、山田昇さん、名塚秀二さんをはじめとする先輩登山家たちが、
九座まで登頂を果たした後、命を落とされています。
その志を継いで登るからには、いつか登れると思いますとか、
やはり無理でしたというわけにはどうしてもいかない。

やると宣言して、最後は這ってでも
登らなければならないと私は考えたのです。

記者会見に向け、そうした思いを綴っていた時、
「登山家」という肩書に私は違和感を覚えました。

世の中には評論家、芸術家など、
「家」のつく職業がたくさんあります。

その共通点をあらためて考えて気づいたことは、
「家」のつく職業の多くは資格が要らず、
自分で名乗るだけでなれるということでした。

それは逆に、いつでも勝手に辞められるということでもあります。
それは自分の思いとは全く釣り合いませんでした。

私は十四座必ず登り切るということ、
山の世界で生きていくという覚悟を込めて、
「プロ登山家」と名乗ることにしたのです。

プロとはいったい何か。

いろいろな考え方があると思います。
私が考えるプロとは、覚悟があるか否かだと思います。

プロ宣言は私にとって、
十四座を最後まで辞めずに登り切ってみせるという
覚悟を定めるために必要でした。

辞めないでやり通す覚悟があるのがプロ。
やると宣言し、それを確実にやり抜いてこそプロだと思うのです。

登山というのは他のスポーツと異なり、
ルールもなく審判もいません。

世間から隔絶した場所で行われることを幸いに、
自分に都合のいいことばかり公開してしまいがちな面もあります。
しかし、これが仮に格闘技の試合であれば、
勝つ試合ばかりでなく、自分がボコボコに負かされる試合も
観客に見せなければなりません。

同様に登山も、結果だけでなくその過程も見せる必要があります。
自分の都合の悪いことも包み隠さず公開することは、
登山をスポーツとして認めてもらうためには必要なことだと思うのです。

ゆえに私は、ダウラギリの登山では、
GPSを使用して自分の居場所をリアルタイムで
インターネット上に公開しました。

これは単純に頂上に行って帰ってくる過程を見せるだけでなく、
万一途中で命を落とせば、その様子も伝わります。

そこまで見せる覚悟があるのがプロであり、
今後登山がスポーツとして発展していくかどうかの
分かれ道になると私は考えるのです。

「食の新しい流通への挑戦」

月曜日, 5月 27th, 2013
  濱田 正人(旬銀座贅沢倶楽部オーナー、食材探し人)

              『致知』2013年6月号
               致知随想より

└─────────────────────────────────┘

皆さんは「贅沢」というものをどうお考えでしょうか。

我が身にはそぐわないほどの豪華なものや高価なもの、
といったイメージかもしれません。

しかし、私どもの考える贅沢とは、
想像以上の満足感を得ること、
中でも最高の贅沢をつくり出すのは、
どんなお金持ちでも買うことのできない
「時間」ではないかと考えています。

手間隙をかけて作られた優れた食材を、
生産農家の顔が見える形で提供しよう――。

それが、私の経営する八百屋兼レストラン
「旬銀座贅沢倶楽部」です。

例えば当店で扱う完全無薬の「梅肉豚」は、
九州天草島の養豚家が実に二十三年もの間、
試行錯誤を繰り返し、生み出されたものです。

もともと高齢者福祉を中心に
複数の事業を展開していた私が、
この道に入ったのは九年前の五十四歳の時でした。

ある農業団体から高齢者福祉施設をつくりたい
との協力を求められ、現地調査を始めたのです。

その地域では農家の高齢化が進んでいましたが、
彼らは例外なく昼夜を問わず、懸命に働いていました。

一方、私は頻繁に農業団体などから接待を受けるのですが、
その経費が結果的に、あの農家の方たちに
ご負担を頂いているのではないかという疑問が湧き始め、
その実態に気がついた時、納得できない矛盾と
葛藤が芽生えたのです。

そして、日々努力している
小規模農家の優れた食材を世に出し、
それが正当に評価される新しい流通の仕組みを
創ることはできないかという熱い思いが込み上げてきました。

自分なりに考えて立てた仮説は、
農家と消費者を繋ぐ販売窓口自体が少ないのではないか、
ということでした。

そこで、自分が個々の農家と消費者を直接繋ぐパイプ役となり、
「少量生産少量消費」の小さな窓口をつくっていこうと
全国行脚を開始したのです。

初めは何も分からず、「道の駅」や直売所などを訪ねました。
するといつも必ず先に売れてしまう野菜や果物がある。

地元の人はどの農家の作物が
一番おいしいかを知っているからでしょう。

私はその農家を訪ね、直に生産現場を見るところから
活動をスタートさせました。

とはいえ、まったくの素人である私が
初めからうまくいくわけがありません。

農家のもとへ赴いても
「東京もんに騙されるぞ」
「先に現金を見せてくれ」
などと言われ、なかなか信頼をしてもらえないのです。

私は見た目も大事なのかもしれないと背広をやめ、
上下作業着に長靴履きという格好にし、
朝の四時や五時という時間でも呼ばれれば
田や畑へ出向き、農作業を手伝いました。

こちらが作物を仕入れてあげるのだという立ち位置ではなく、
生産者と同じ目線に立って初めて信頼が得られるのだと
考えたからです。

そうして多くの方の話を伺う中で、
実感したことがありました。

それは

「生産品の良し悪しは、生産者の人柄に比例する」


ということです。

さらに、優れた食材を作る農家には
独自の哲学とそれに至る苦労、
つまり「物語」があること、
また優れた生産者同士は他県であれ繋がっていることにも
気がつきました。

そうして粘り強く訪問していくうちに信頼関係ができ、
農家から農家へと紹介もしてもらえるようになっていったのです。

しかし農家の信頼を得ることができても、
既存の流通業界との軋轢には随分苦しみました。

現在の仕組みでは、生産者は様々でも、
作物がいったん団体などに集荷され、
箱詰めされてしまえば、
どれも同じ値段・産地として提供されてしまうのです。

つまり、手間隙をかけて作った
農家の作物とそうでないものとの区別がない。

そこを差別化し、顔の見える流通にしませんかと
提案した時には強い抵抗にも遭いました。

そうした中で平成二十二年、
個々の農家に食材を提供していただき、
それをお客様が食し、購入できる
食材のリアル情報サービス「八百屋レストラン」を
銀座にオープンさせました。

年中休みなく地方の農村を歩き回る私を
人は変わり者のように見ていましたが、
自分の作った作物を東京のレストランで
食べてくださる人がいると知った時の
生産者の弾けるような笑顔。

またお客様からこんなにおいしい野菜や果物が
あったのかと喜ばれると、探してきた甲斐があった、
もっとたくさんの人に食べてもらいたいという気持ちになり、
それが何よりの励みとなってきたのです。

苦しい時期もありましたが、
地道な取り組みが実を結び、
現在ではお客様の数も徐々に増え、
リピーター率も約六十五%という
高い数字になっています。

食の新しい流通に挑む中で見えてきたものがありました。

それはお互いに顔の見える食の流通が、
人間の信頼関係の構築に繋がっていくということです。

生産農家はあの人のためならば、
と一所懸命優れた作物を作る。

お客様はあの農家さんが作ったものだからと
少々傷んだものがあっても、彼らを信頼し作物を購入する。

手間隙はかかりますが、そこで味わえるものこそ、
食の本当の満足、贅沢だと私は思うのです。

科学技術は我われが便利に暮らす上で
大切なものかもしれません。

しかし、人間は食なしに生きてはいけません。
食はその国の文化であり、国の礎を成すものであると思います。
これからも命ある限り、農家を支援し、
日本の食を強くする活動に挑戦し続けたいと思います。

「冒険とは、死を覚悟して、そして生きて帰ること」

日曜日, 5月 26th, 2013
 三浦 雄一郎(冒険家)

              『致知』2004年3月号
               特集「壁を越える」より

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【記者:昨年(2003年)2月にお二人は、
    雄一郎さんのご長男の雄大さんを含めて
    親子孫の三代でアルプスのモンブラン大氷河を滑走され、
    さらに五月には雄一郎さんが世界最高齢で
    エベレスト登頂に成功されました。

    いずれも人類が、これまで越えることのできなかった壁を
    越えた大快挙ですが、現在のご心境はいかがですか?】

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エベレスト登頂ということは、
いくつかある自分の人生の最大の目標の一つでした。

結果として世界最年長記録になり、
モンブランは親子同時滑走ということになりました。
しかしどちらも死ぬ可能性はありますし、
それを承知で行っているわけです。

人間がある限界を越える世界に入っていくというのは、
死を承知の上でなければしないほうがいいし、
死をしっかり見極めて、かつそれを
どう乗り越えていくか ということになると思います。

冒険家の植村直己さんが

「冒険とは生きて帰ることである」


と言った言葉は有名ですが、
実は一行言葉が抜けていて、

「冒険とは、死を覚悟して、
  そして生きて帰ることである」

と言ったんですね。

自分の生命の限界を越えても、
そこに行く意志と能力を持って行かなければいけない
という言葉です。

僕は若い頃から、四十歳まで生きればいいと
いうようなむちゃくちゃなことをやってきて、
そのたびごとに生きて帰れないかもしれないということを、
ずっと繰り返し続けてきましたから、
その辺の覚悟はできていると思うんですが、
七十になって、人間が事を為すに当たって、
単純に言えば命懸けということを
実践できるかどうかということを試してみたかったんですね。

父、敬三がモンブラン滑走を終えてからポツリと
「今生の別れのつもりで滑った」と
漏らした言葉には感動しました。

エベレストに出発する一か月前でした。
前からその覚悟は知っていましたけどね。
万が一俺は死んでもしょうがないと。

そういう極限の世界まで入っていけるということが
すごいと思いますし、そういう覚悟があって
初めて事が成就するんだと思いました。

「人生で成功する人 失敗する人」

金曜日, 5月 24th, 2013
      渡辺 尚(パソナキャリア社長)

              『仕事力入門』より

└─────────────────────────────────┘

優秀なビジネスマンでも五十代ともなると
再就職は難しいと考えられています。
しかしそうではありません。

二十代、三十代を求めていた企業がベテランを採用して
成功した例は決して少なくないのです。

ベテラン社員には若手にない経験や人間的魅力があります。

長年磨き上げた経験を生かしてマネジメントや営業、
債権回収に強みを発揮したり、
ビジネス文書に精通していることで、
企業の発展に貢献された方と
私はこれまで数多く接してきました。

中高年の再就職を柱とする人材ビジネスを営む者として、
クライアントの笑顔に接することは、何にも替え難い喜びがあります。

私が大学卒業と同時に、人材派遣で知られる
パソナグループに入社したのは一九八九年でした。

やがてバブルは崩壊、多くの企業が人件費の安い海外へと
相次いで進出しました。

これを受けて九三年、企業間の出向支援ビジネスを
社内ベンチャーとして事業化したのが
当社パソナキャリアの前身です。

九九年にはベテランビジネスマンの
再就職支援に本格的に乗りだし、
二〇〇四年以降、業界一の業績を
キープするまでに成長を遂げることができました。

ところで、私はベンチャー立ち上げの頃から
カウンセラーとして五千人を超える
ベテランビジネスマンと面談を重ねる中で、
仕事や人生に成功する人、失敗する人には
驚くほど共通した点があることに気づきました。

一つは会社や上司への愚痴、悪口、不平不満など
マイナス言葉、否定語の多い人は
人生でも仕事でも決してうまくいかないという点です。

よい大学を卒業し一流企業に籍を置きながら、
レールを外れ辞めざるを得なくなる人の中には、
マイナス言葉のオンパレードという人が少なくないのです。

自分の損得にこだわる傾向にある人も、
長期的に見たらうまくいっていません。

すぐに次の就職先が決まったとしても、
その方が以前と変わらないマイナス言葉のままだと、
短期間で辞めることになってしまいます。

理想的な仕事に恵まれても、
その環境の中で愚痴や不満のネタを見つけ、
同じことを繰り返すからです。

「想い出をキレイに一生残すために」

木曜日, 5月 23rd, 2013
佐藤 勝人(サトーカメラ専務)  

              『致知』2013年6月号
               特集「一灯照隅」より

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  ただカメラを売るだけでいいのか?
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私は「栃木で一番の店にする」と公言して、
朝から夜まで店に立って働きました。

当時は、とにかく早く回せ、効率よくやれと、
売ることしか頭になかったですね。

「客なんて面倒くさいだけ。さっさと売ってなんぼや」
と号令をかける。

そんなことで、県内に四百軒あったカメラ店の
最下位からスタートして、
三年間必死に働いて栃木一番店になりました。

平成十二年には県内に十店舗を構えるようになったんです。

私生活では高級外車を乗り回し、
毎晩飲み歩き趣味のスノボやゴルフや
サーフィンもやっていました。

これが若い頃に夢に描いた大人の姿なんだなって思っていた。
当時はそれが楽しいんだけど、
でも、どこか楽しくないんですよね。

商品はどんどん売れていく。
でも、ものが売れればそれだけでいいのかと
いう気持ちが芽生えていました。

それが決定的に変わったのは平成十五年、
十三店舗目にあたる、売り場面積二百坪の宇都宮本店が
オープンした時でした。

ちょうどその頃、うちが主催の写真撮影会があって、
私も顔を出したんです。
そこに七十歳代のおばあちゃんが
一眼レフカメラで写真を撮っている。

そのおばあちゃんが俺のところにまっすぐ来て、
「こんにちは、私のこと憶えている?」と言うんです。

しかし、さっぱり分からない。

「私は十年前にあなたに勧められて
  この一眼レフカメラを買ったのよ」

と言われて、まじまじと顔を見ました。

【記者:思い出しましたか?】

いや、そんな昔にカメラを買った
おばあちゃんのことなんて忘れていました。

「六十歳の時に旦那が亡くなって、
 やることもないから毎日パチンコをしてた。
 六十五歳の時、息子に子供が生まれてカメラを買った。

 でも使い方がよく分からないから毎日のようにお店に来て、
 カメラの使い方を教えてもらった」

そこまで聞いて「ああ、あの時の」って思い出しました。
さらにこう話してくれたんです。

「あなたに使い方を教えてもらってから、
 毎日のように楽しく写真を撮って、
 賞もいろいろもらった。

 いま私は七十代だけど、あなたと知り合い、
 カメラを憶えたこの十年間が人生の中で一番幸せだったわ、
 ありがとう」

って。

本当に感動しましたね。
若い頃、人に影響を与えるような人間になりたい、
そんな仕事をしたいと思っていたこともありましたが、
なっていたんです、この仕事を通して。

おばあちゃんのひと言がきっかけで、
これからはきちんとお客さんのことを考えて
カメラを売らなくてはいけないと思うようになりました。

そんな頃ですね、うちの経営方針である
「想い出をキレイに一生残すために」
という言葉が生まれたのは。

「奪い合えば足りず、分かち合えば余る」

水曜日, 5月 22nd, 2013
  浅利 妙峰(糀屋本店)
              『致知』2013年6月号
               特集「一灯照隅」より

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【記者:塩糀を現代の料理にアレンジされたところも、
    広く受け入れられた要因の一つでしょうね】
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私は「温故知新」という言葉が好きなのですが、
真理というものは何千年も何万年も前から
変わらず未来永劫に存している。

それをどう磨き出すかは
現代に生きる私たちに委ねられています。

糀は日本の食文化の根幹にありますが、
味噌や醤油をもう一度各家庭で手づくりしましょう、
というのは無理があります。

味噌や醤油は一年かかりますからね。
でも、塩糀は一週間あればつくれます。
簡単で、しかも料理はおいしい。
そういう点も、塩糀が現代社会のニーズに
合っているところだと思います。

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【記者:塩糀を蘇らせた立役者ですが、
    浅利さんは商標権を一切取らなかったそうですね】
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熱心に勧めてくれる人もあったのですが、
何もエジソンが電球をつくったような大発明ではなく、
たまたま文献の中から見つけ使い方をアレンジしただけ、
「塩糀」はもともと日本の食文化の中にあったものです。

また、糀菌が育つのは自然の作用です。
私たちも作り手として懸命に関わっています。
糀は人智を超えた力でつくられるもので、
それを一人の人間が勝手に取り扱うべきではないと。

現実的に考えても、うち一軒だけでは
ここまで広がらなかったでしょう。
大手の食品メーカーさんが参入されたから日本中に浸透し、
定着したと思います。

「奪い合えば足りず、分かち合えば余る」

といいますが、一人勝ちしようとすると、
絶対に長続きしません。

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【記者:いま全国の糀屋さんを訪ねて料理教室を開催し、
    応援しているのも、そういうお考えからですか】
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そうです。また、長い歴史の中で、
うちの先祖が助けられたこともあるでしょうし、
まだ見ぬ未来の子孫がどなたかに助けられるかもしれない。
お互い助け合う中で生きている。

情けは人のためならずの言葉のとおり、
善の種を蒔けば、どこかで
善の花が咲くことを信じていますし、実践しています。

「心に残る言葉 ―― 一沈一珠」

月曜日, 5月 20th, 2013
  『生きる力になる言葉』(藤尾秀昭・著)より

└─────────────────────────────────┘

一沈一珠――。
「いっちんいっしゅ」と読みます。

この言葉は、青森在住の木村将人さんから
教わりました。

木村さんは森信三先生のお弟子さんです。

森先生のご生前中、先生が、
「あなたはこの3人に会いなさい」
といわれたことがありますが、
その中のお一人が木村さんでした。

木村さんは長い間、青森県各地で中学校の教師を
務められた方で、
『致知』にも何度かご登場いただいています。
実によく子どもたちを指導された方です。

木村さんの教育論を伺っていると、
こういう先生に中学時代に教わった子どもは
幸せだなぁと思います。 

その木村さんが随分前に出版した自著のタイトルが
『一沈一珠』でした。
その本の中で、木村さんがこのようなことを書かれています。

木村さんが大学生の頃のことです。
数日間2人1組でアルバイトをしていた相棒と一緒に
布団を並べて天井を見ながら、
朝まで語り明かしたことがあるそうです。

大学浪人のその相棒は木村さんに、
こんな話をしたといいます。

「自分は母一人子一人の身なのだが、
 きっと大学に入って母を安心させてやりたい。
 そして卒業して仕事について母を楽にさせてやりたい」 

そして、こう続けたといいます。

「自分は小さい頃から、
 一沈一珠という言葉をいつも心の中でかみしめながら、
 頑張ってきた。

 あの海女が、いったん海に潜ったら、
 どんなに息が苦しくなっても、
 一個の真珠貝を見つけ出すまでは決して浮上しない、
 というところから、この言葉はできたらしい。

 自分はいままで何度もつらい思いをしてきたけれど、
 この言葉を思い出し、生きてきた」

一夜、いろんな話をしたはずだが、
覚えているのは、この話だけと木村さんはいっています。

翌日、最後の仕事を終えて給料をもらった木村さんは、
その給料を全額袋のまま、その相棒に渡し、
逃げるように立ち去ったといいます。

木村さんの人柄をそのまま表したような逸話です。

一沈一珠――。
海女は一度深い海に潜ったら、
1つの真珠貝を見つけるまでは、
どんなに苦しくてもあがってこない。

私たちも人生の中で様々な体験をしますが、
どんな体験の中からも必ず1つの真珠貝をみつけ出していく、
そういう生き方をしたいものです。

「ビートたけし氏とお母さんの感動秘話」

土曜日, 5月 18th, 2013
 下村 博文(文部科学大臣/教育再生担当大臣) 

              『致知』2013年6月号
               特集「一灯照隅」より

└─────────────────────────────────┘

いまの日本には偉人伝というだけで
拒否反応を持つ人がいるんですよ。
それ自体、異常な社会だと思うのですが、
そういう時、私はタレントの北野武さんの話をするんです。

そうすると皆さん「なるほど」と言って
聞いてくださいます。

それは北野さんのお母さんのお話なんですね。

北野さんが芸能界に入って売れるようになった頃、
お母さんから「金をくれ」と言われたというんです。

それからも何かにつけて
法外なお金を要求されたと。

とんでもない親だと思ったけれども、
親には世話になったし
迷惑を掛けたのも事実だから
言われたままに出していたそうです。

そして、お母さんの命がもう何日もないという時に
軽井沢の病院に行った北野さんは
お母さんから一冊の通帳を渡されるんです。

帰りの新幹線の中で
その通帳を見た北野さんはビックリするんですね、

いままで渡していたお金が全額入金されていた。

芸能界は浮き沈みの激しい世界ですから、
お母さんとしては息子が
売れなくなった時のことを考えて、
そっと蓄えておられたのでしょうね。

子供は親孝行したいと思っているけれども、
親が子を思う気持ちはもっと深い。

吉田松陰が「親思う心にまさる親心」
と詠んでいますが、親が亡くなって
「もっと孝行しておくべきだった」
と子供だったら皆思うんじゃないでしょうか。

これは何も国が「親孝行しろ」と言うのとは
違うわけでしょう。

道徳の授業の中でそういう話が
エピソードとして出てくれば、
誰でも素直に皆受け取るはずです。

人が人として生きるために大事なことを学ぶのは、
本当は英語や数学の学力を高めること以上に
必要なことなんですね。